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この時代の中で、消えてしまいたい人へ。
世界中で病が流行り、経済的に大きな変動が起きて。
「みんな大変だよ」って言葉にうんざりし、「自己責任」が一人歩きをする民意と国政に心を閉ざし、現実的な対処法をひねり出すことにも疲れ果て、高みの見物な人ほどかざすズレた正義に傷つき。
もう。
全てシャットアウトして、誰とも関わらず、静かに消えたいというせつなさ。
消えたい。
消えたい、と、死にたいは、ちょっと違っていて。
でも、どちらも「死」と表裏一体である「生」に向いている。
消えたい思いは、思考で疲れ果てている「生」が原料で。
死にたい思いは、状況に絶望している「生」が原料。
どちらも、生きることに猛烈に挑み、全力で生きたいと願っている。
生も死も。正否で振り分けられるようなものではないほど、シンプルで。
正しい生き方、正しい死に方、間違った生き方、間違った死に方、と言えるはずもない。
正否・善悪の一般論基準は、時代の出来事であっさり変わる。
永久絶対はない。
だからこそ。
消えたいときこそ。
死にたい時こそ。
脳内に湧き上がる「誰だかわからない人の声」など全て流して。
外界にあふれる情報も一旦、切り離し。
自分の肉体を構成する37兆もの「生きよう」としている細胞を愛おしみ。
「とはいえ、まだ今は生きている」と自分の存在自体を認め。
自分がこの世から消えても、空には鳥が飛んでいて、花も咲く、海の波は止まらず、朝が来て夜が来る。地球の裏側には自分の知らない匂いの国がたくさんあって人や動物が暮らしている。
どのみち、100%正確な理解なんてものは、自分自身が相手でも曖昧な問いなのだから。自分の中で広大に広がる精神の世界もそのままに手を出さず。
静かに。
ただ、ただ、静かに。
体内の細胞たちへ「生きる」ことをお任せして。
思考に降参してみるのも、自然。
死体にも、カビや虫が湧くように、命は生と死のセットだから。
生きる時は生きる。死ぬ時は死ぬ。
正しく綺麗に休もう、なんて思考もいらない。
ただ、単純に生きようといている37兆の細胞を侵害せず、生きさせておく、ほっておく、考えることに降参。
そうするとね。本当に不思議なんだけど。
消えたい、死にたいって時でも、うっかり笑っちゃったり、喉乾いたり、自分の唾でむせてひどく咳でたりすると治そうとするものなんだよ。割と死のギリギリまで自力でトイレには行くし、ちゃんと流すし。
かっこわるくて、思考と矛盾していて、なんとも、可愛く滑稽なのが人間という生き物なんだなぁ、と倒れながら苦笑いしたら。
もう大丈夫。