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兄弟というより親友だった弟の最初の月命日、の巻。

2021年7月27日 火曜日 あさ5:54、弟・田中慎也が他界しました。(享年51歳でした)

その前日7月26日 月曜日から家族の24時間の付き添いが許され、私も付き添っておりました。日付が代わり、途中何度も家族の呼びかけに応えて踏ん張ってくれていたのですが、火曜の早朝にゆっくりゆっくりと。。

コロナ禍にも関わらず、通夜並びに告別式にお心遣いを頂戴したみなさま、あらためまして御礼申し上げます。また、連絡が行き届かなったみなさま、大変申し訳ございませんでした。少し長くなりますが、綴らせてください。

昨年12月に病気であることがわかり、ときには辛い様々な検査をしながら、年明けから本格的に治療を開始しました。立っていられないほどの体の痛みに加え、薬の強い副作用のなか、奥様の献身的なサポートにより、辛く苦しい闘病ながらも、常に前向きに、弱音をはかず「必ず治す」と頑張ってくれていました。

入院してからは、特別に家族と私のみ面会を許されたものの、容体が悪くなると携帯を使っての外部との連絡も厳しくなり、相当寂しい思いをしていたはずです。(本人のFacebookの投稿が途絶えたのはそういった理由でした)それでも、私が見舞いに行くと必ず、子供たち、両親、そして会社のメンバーは大丈夫か?と聞いてきます。


幼少期


子供の頃から、兄よりずっと社交的で、家で私の友人と遊んで彼らが帰る頃には、慎也が玄関で見送っていたそうです。私が、大学の卒業旅行で、慎也のいるオーストラリア・シドニーに遊びにいった時に、現地にとてつもなく馴染んでいる姿をみて、私よりもずいぶんと大人で、少し羨ましくもありました。私が帰る時に空港で兄弟喧嘩(ビーフジャーキーを持ってく持っていかないとかくだらないことでした)をしてそのまま飛行機に乗った記憶が蘇ります。


その後、母がシドニーを訪れた際のツーショット


彼の帰国後は、私と二人でアパートを借りて一緒に住んだりしていたので、どんどん共通の友人が増えて行きました。私と同じ業界ということもあり、朝まで一緒に飲んだりは割と日常的でした。1993年ごろ、彼が代表を務める株式会社サン(創業したのは父で彼が二代目)を母体とするサッカーチームを作ってからは、六本木の大王と呼ばれるような悪い先輩によって遊びに拍車がかかった時期もありましたが、そんななか奥様と出会って、結婚して20年、2人の子供とワンちゃんとすばらしい家族も出来て、まだまだやりたいことは山ほどあったことでしょう。

調布の関東村にて

助けられず、ただただ無念です。一ヶ月経っても無念が続いています。もう話すことも喧嘩することも2人で歌うことも出来ないけど、その存在は常に私たちの近くにある。そう思っています。

今後も残された家族や株式会社サンのメンバーに対し、今まで同様のお付き合いを賜りますよう、お願い申し上げます。

2021年8月27日

最近のは飲んでる写真ばっかり


ではでは。

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