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【日記】10月16日には書けなかった11月4日のピンクの自転車

10月16日
 金木犀の香りがふわりと鼻に届くとセックスをしたくなる。気がついたら長すぎた夏が終わり、庭の金木犀が今年も花をつけていた。金木犀の香りに気がつくのはいつも夜だ。夜闇の中に小さなオレンジ色がいくつも浮かんでいる。
 煙草に火をつけて指先八センチにオレンジを足すと、甘くない匂いが立ち昇る。口の中に広がった苦みを一度噛んでから白い煙を吐き出すと、セックスをしたい気持ちも一緒に消えた。
 そもそも本当にセックスがしたかったわけじゃない。金木犀の香りにそう思わされただけだった。自分の本当の気持ちなんてものはないし、すべて移ろう。

 そこまで書いて文章が終わっていた。日記を書こうと思って書き始めたけれど、途中で書く手が止まって放置され、気が付いたら金木犀の花も散ってしまった。今はもう11月4日。3連休も終わってしまった。
 この3連休になにか印象的な出来事があったわけでもなく、普段と変わらない日常を3日連続で続けただけなのだけれど、日記とは本来、なにか印象的ななにかがあったことを理由に書くものではなくて日常的に書くものであるから、とりあえず今日からまた書いてみようと思った。今回は金木犀の香りにそう思わされたのではなく、煙草をつけたときのライターのオレンジ色の火を見て、そう思った。ライターの火が煙草の火を書いた先日の文章を思い起こさせて、それが金木犀の香りを思い出させて日記を書こうと思ったのだから、結局は金木犀の香りのせいと言ってもいいのかもしれないけれど。いずれにしても、僕は日記を書いてみようと思わされたのだ。なにかに、世界に。だから、この世界の片隅から見た景色をこの世界の断片として書き残してやろうと思う。

 この3連休の間、ずっとうちの家の前に見知らぬピンク色の自転車が停まっている。古臭くてチェーンが茶色く錆び付いているけれど電動自転車で、バッテリーは盗難防止のためなのか外されていて近くには見当たらない。前には大きな籠が、後ろには車体と同様のピンク色の塗装がされた荷台がついている。全体的に女性的なデザインの自転車だ。それが1台、ぽつんとうちの家の塀の脇に置かれている。タイヤに鍵がかかっているから、放置自転車ではないようで、近所のだれかが適当な駐輪場がないことを理由にうちの前に停めているのかもしれない。
 持ち主にどんな理由があるのかはわからないけれど、置かれているこちらとしてはいささか気分が悪い。煙草を吸いに出ると、街灯の弱々しい明かりに照らされて自転車の古臭さがより際立って薄気味悪い。
 しかしながら、自転車が置かれているのは家の敷地ではなく公道の上である。勝手に粗大ゴミに出すとか、バラバラに分解するなどの処分ができない。役所かどこかの公的な力を持つ場所に通報して対処を待つしか方法がない。土地の境界線という強固な線引きが存在しているため、僕には手出しができない。僕と自転車と土地の関係性によって、そのピンク色の自転車の存在のあり方は大きく変わる。そもそもピンク色の自転車そのものに害悪性はない、というより「ピンク色の自転車そのもの」という物が存在しない。それは僕の世界において「見知らぬ他人のピンク色の自転車」であり「僕の家の前に置かれているピンク色の自転車」として存在をしているから目障りなのだ。
 この自転車の存在のあり方と同様に「僕そのもの」という人間は存在しないのかもしれない。僕は僕でありながら、他人との関係性の上に存在が成り立っている。息子であり、弟であり、夫であり、父であり、部下であり、先輩であり、後輩であり、友達であり、他人である。そうした他人との関係性を抜きにしたとき、僕は僕そのものとして存在できるかわからない。人間であり、熊やライオンから見たら捕食すべき肉であり、野良猫から見たら警戒すべき敵である。
 ピンク色の自転車の持ち主からすれば、僕の方もまた見知らぬ他人であって、見知らぬ他人の家などはただの風景でしかない。そこで実際の生活が営まれていて、人間が息を吸って吐いて感情を上下させて思考をしている、なんてことは思い浮かばないのかもしれない。
 そうだとしても、煙草を吸いに出たタイミングで持ち主が来ないかと思って、この3連休の間、煙草の本数が増えてしまった。僕にとって実害が出ているのだから、なんとかしたい。
 そう思って、また煙草を手に持って外に出た。これで今夜5本目の煙草だ。指先に染みついた煙草の臭いに辟易する。タバコに火をつけて煙を吐き出しながら自転車を眺めた。ピンク色、籠は茶色、チェーンは錆び付いている。このチェーンでは走りながらぎこぎこうるさいだろうな、と思った。せめてもの抵抗としてチェーンを外してやろうと思いついた。ペダルを踏んでも空回りして思いの外に軽い感触に拍子抜けする誰かの顔を思い浮かべた。その誰かは50歳代のぼってりと太った中年女性の姿で想像された。
 咥え煙草で自転車に近づいて傍らにしゃがみ込むと、自転車に貼られた防犯登録の文字が見えた。そこには熊本県と書かれている。ずいぶんと遠い。その文字を見た瞬間、チェーンを外す気持ちは失せてしまった。熊本からやってきたのだ。遠く熊本からやってきたこの自転車に罪はない。
 僕は煙草を一度だけ深く吸い込んでため息とともに煙を吐き出してから立ち上がり、家に戻った。気持ちはもう醒めてしまった。熊本という文字がそうさせた。僕は僕自身の気持ちすら思い通りにコントロールできない。

 明日もこのピンク色の自転車があればいい、とすら思った。遠く熊本と僕をつなぐ存在に思えた。それ以外の熊本との接点を僕は持っていない。明日の朝が楽しみになった。

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