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折口信夫「死者の書」を読んで#269

折口信夫の「死者の書」を読んだ。

難解な書籍であったが、本書を読んで感じたことを忘れぬうつに綴っておきたい。

本書の物語は、8世紀頃。

幽霊となった大津皇子を鎮めるために、中将姫が阿弥陀如来が描かれた曼荼羅を蓮の糸から編むことで、成仏するという、スピリットとエロスの物語になる。

本書の魅力は、実に色んなことが言える。

最近色んな方に話をするのだが、物語にはものすごい力を秘めている。

それはシネマセラピーがあるように、映画をみて治癒や変容が起きたり、読書療法(ビブリオセラピー)があるように、本をみて治癒や変容が起こる。

それは、まるでその世界に入り込んで、その人のなりきるかのように代理体験する。それによって、自分が言葉にはできなかったことが言葉として出てきて、感情が動く。

今回、折口が綴る「死者の書」を通じて、自分の中にある魂が呼び起こされる感覚がある。

全然毛色の違う書籍だが、ジョアンナ・メイシーの本を読んだときにも、その感覚があった。

しかし、この感覚は、今の私にとっては一時期的なもの。

一晩寝れば、いつもの感覚。いつもの感覚というのは、この身体が自分。自分がこの身体の中に収まっている。

しかし、実際のところは、私たちは自分の身体に閉じたものではない。

わたしたちは他者の痛みを感じることができるし、場の空気の悪さみたいなものを直感として感じることもできるし、祭りのような場では全体で1つのグルーヴを作り上げることもできる。

なんらかこの皮膚の内側に閉じたものではない。

だが、近代以降、わたしたちの社会が魂というものを周縁化してしまった。

実際、本書を読むと、昔は色んなものに神が宿っているとしてきたことを感じる。

岩や木にも神が宿るとしてきた。神社を考えると、これは今でもそうかもしれない。

現代でも、自分がつくったモノに対しては人一倍愛情をもって大事にする。この姿も1つ、そのモノに何かが宿っているかのような振る舞いに思う。

そう思うと、実際我々の中にそういった感覚が眠っているといえる。

真に人間のホールネス(全体性)を大事にするのであれば、こういった感覚・感性を取り戻す必要がある。

折口信夫が、浄土真宗の戒名として「釈迢空」を名乗り、この物語を書く事自体が、まさに鈴木大拙のいう日本的霊性の産物といえる。

本書からあまたのメッセージを受け取れるにも関わらず、私自身がそういったことを感じ取っているのも、今の私がそういったことを取り戻そうとしているからに他ならない。

2021年9月9日の日記より


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