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ムスリムが一日五回の礼拝やラマダーン月に断食をするのを「なぜそんなに自分の時間を浪費するの」とネガティブな見方をするのに、なぜ自分が朝早く満員電車で通勤し、サービス残業で夜遅くまで会社に残るのかを顧みない。
僕は否定したいんじゃない。貴方の人生について、考えるきっかけを与えたい。
意図的な情報操作、人為的なミーム進化。考えてみれば、日本独特のミームの流れには、わかりやすい象徴があった。マインド・ウイルスのプラントにしてマスメディア、まとめサイト。
子育て中のお父さんお母さんや、保育士さん、幼稚園の先生の書く文が美しいのは、子どもと触れることで、日常の些細なことすべてに意味があるのを、あらためて気付けるからなのかな。道端の石ころや吐く息の白さのすべてがとっても美しい。
日本人は、共同体社会の日常で宗教的なモラルを獲得していること、またオウム以降、宗教に対する否定的価値観をもったことで、独特の歪んだ人生観を得てしまったような。
欧米に追いつき追い越せの発展をしたことが、いわゆる“社畜”を無意識に正当化する傾向があるのも、同じ次元にあるような……。
結局、生まれてこの方国民の意志が政治に反映されるのを見たことがなければ、もしくはそのために自分に取り返しがつかないようなことが降りかからなければ、「投票で政治は変えられる」というミームは「投票しても政治は変えられない」というミームにどうやっても勝てないのです。
あぁ、noteよ不自由たれ!
全てのクリエイターに、主体性こそ創造性だとあまねく伝えよ!
伊藤計劃作品は、ミームが非常に重要視されている。円城塔はその意志を継いで、屍者の帝国は生まれた。“菌株”に支配された人類。“菌株”と“人類”の戦いは、“ミーム”と“DNA(が生み出した意識)”との戦いなのか。
今後も共同体社会が失われていくとしたら、当然、保育はとても重要になる。
ミーム学が、保育にアプローチするとしたら、どういうものなのか。
それは、保育士が子どもたちへ
“「主体的にミームを取捨選択し、自身をプログラムする」というミーム”
を与えることだと、今のところは考えています。
ミームを巧みに拡散するマインド・ウイルスとしての芸術。
いつか僕はそれを生み出したい。
つまり、創作者それぞれに納得できる数があればよいのであって、それは創作者間で比較・競争されるべきではないのではないか、ということです。
いずれこの辺り、テキストにまとめて考えてみます。
全体が見渡せる、把握できる場では、その環境内でなんらかの優劣・上下が生まれやすい。経済としては良い環境かもしれないけれど、創作者の環境としては良いものと思えないのです。芸術はなんらかの数で示すべきものではないと思うからです。
少し使いづらいくらいでいい。他のように使いやすく、流れが視覚化され、数の大きさが強調されるようなSNSじゃなくていい。きっと、この独特な環境が、新たな物を生み出すはず。積極的・自発的・能動的・主体的、そういう人たちでなければ活用できないスペース。
雲間から差す一筋の光になりうる。
正直言えば、noteは流行が見えにくい。これはデザインやシステムがそうさせているんだろう。コラボ企画がnote全体で一番流れを作っているようだけども、僕はそこが最大の流れのままでいいと思う。全体が見えない、部分しか見えない。それでいい。他のSNSとはここで差別化してほしい。
伊藤計劃のアウトサイダー的SFの観点はどれも面白いんだけど、個人的に好きなのは、「本を持つことは反社会的行為」だという表現。いまの効率主義社会の中でも、「電子書籍ではなく敢えて実際の本を選ぶ」という行為は充分に反社会的と言えるんじゃないだろうか。ロックだ。