じゅん@保育コミュニティ代表
パレッタブルに関するコンテンツをまとめたマガジンです。
個人的な日記です。
※以下は連続した僕のツイートを求めたものです。読みづらい点はご了承ください。 日本に限定して考えたとき、ジェンダーに関する教育は小学校から始まり、またその内容は「すでに子どもはジェンダー・ステレオタイプ(男はこういうもの、女こういうものという価値観)に馴染んでいるので、それを解いていく」というものになっています。 では乳幼児期はどうなっているかというと、教育場面(保育園・幼稚園など)ではむしろ、ジェンダー・ステレオタイプに基づいた教育的関わりが、無意識的かつ積極的にされて
【1冊目】 『フラニーとゾーイー』(野崎孝訳) J.D.サリンジャー この本が本当に好きで好きで、人に貸しているのも含めると全部で3冊持っている。全部、野崎孝訳の文庫。 僕は村上春樹訳ではなく、どうしても野崎孝訳で読みたかった。でも、今はほとんどの書店で村上春樹訳しか置いていなくて、近所の古本屋さんで店主のおじいさんにも手伝ってもらって、店中探し回ったことがある。結局見つからなくて、 「今度入ったら、取っておくよ」 ということに。頻繁にそこに行くわけではないのだけど、コロ
パレッタブルメンバーの一瀬奏ちゃんは、広島県出身。広島はお母さんの地元で、お父さんの地元は長崎だ。そんな彼女にとって、戦争を考えるなんていうのは当たり前のことで、温度感や湿度感を伴うような、非常にリアルな体感を伴った話題だった。だからこそ、現在SNS上で交わされるような対立を煽る表現、「戦争」や「ヘイト」が平然と肯定されることに、彼女は強い違和感と嫌悪感を抱いている。そうした表現をする人たちは、恐らく表現によって傷付く存在が実際にいることを体感できていないし、加害(それらは充
8月の24日から27日日までの4日間、自分の活動量がよくわからないことになってるな、と振り返って思う。 24日 保育語りbar イベント参加 25日 パレッタブル イベント主催→ぐうたら村セミナー組を誘ってお話→写真部→終電逃す 26日 始発の時間までバーで過ごす 27日 まいみちゃんのイベント手伝い→カフェで4日間のまとめ作業 夏休2日を土日に重ねたので、4連休となっていた。土日のイベントは元々決めていた予定だけれど、このイベントで“スイッチが入った(とよく表現するのだ
まるで花火のように、頭上をミサイルが飛び交う中で生活している、ヨルダンの子どもたち。彼らに「ミサイルが落ちやしないか、怖くならないのか」と聞くと、自分の国が戦争しているのではないから、狙われることもないと、当たり前というスタンスで答えが返ってきた。生まれたその時からこの環境で暮らす子どもたちにとって、ミサイルが行き交う空こそ、日常の風景に他ならない。 平和とは何か、戦争とは何か。世界に目を向けたとき、子どものリアルな日常から、教育を語るための前提を考えなければいけないように感
僕のルーツは、東北にある。 生まれは岩手県一関市。県最南端に位置していて、合併により東京23区がまるごと2つ入るほどの総面積。生まれ育ったのはその旧市街地で、古く小さな商店街だった。以前は僕の家でも店をやっていたので、未だに近所では屋号で呼ばれる。 あんこ屋の紅屋さん。曾祖父は和菓子職人だった。 岩手県は主に南部藩と伊達藩に分かれるのだけど、僕の地元はその間に残る田村藩。坂上田村麻呂の末裔が治めた土地らしい。家のすぐ近くには川が流れ、少し歩けば城跡の残る小さな山。もっぱら
生存報告。
10歳くらいだろうか。シンプルな空色のワンピースを着た少女が、ホームをうろうろと歩いている。困ったような表情を浮かべているので、声を掛け、肩を軽く叩く。少し驚いた様子でこちらに振り向いた。 「大丈夫? どの電車かわからないの?」 視線だけをこちらに向けたまま、彼女は大きく頷いた。 観光パンフレットで示す場所は、僕の行く先の途中。 「同じ方向に行くんだ。これだよ」 タイミング良くホームに入ってきた快速電車を指差すが、彼女は僕を見上げて動かない。 「一緒に行く?」 頷くとき視線
保育の現場に男性がいることの意味は何か。実例から見えてきたのは、男性が少ない現場ほど「男性らしさ」が求められるということ。保育の現場で働く男性たちは心身ともに驚くほどたくましいが、もちろん「男性らしさ」という価値観によって苦しむ人たちも少なくない。例のごとく、男性蔑視すらもある。
昨今の保育についての様々な議論で感じた、いま保育関係者に求められること。 「保育自体について世の中に理解してもらえるよう情報展開していくこと」と、同時に「保育者の専門性を伝えていくこと」だと思います。どうやったら叶うのか。 身軽な今のうちに行動せねば、と自分に言い聞かせています。
ナカノヒトヨさんに多大な影響を受けてnoteも始めるに至りましたが、今は反抗する立場です。否定ではなく反抗です。カラマーゾフの兄弟におけるイワンです。
水木しげる先生は、都市化によって生きづらくなった人や動物や様々の苦しみを、妖怪を通して表現していたよなぁと思う。
僕らは僕らの境界線から君らに言葉を送り続けるけど それが届くには僕らの命があまりにも短いので 僕らはきっと境界線を踏み越えて歩き出すでしょう
子どもは未来を変えうる存在なのだから、「今見た未来に生きる」子どものための教育ではなく、「今を生きる」子どものための教育をしてほしい。前者には少なからず保護者や教師の保身がつきまとう。子どものためにも、教職養成の見直しをお願いしたい。子どもの発達や権利について今一度学んでほしい。
「お金目当てで働かれたら困るから、保育士の給与は少なくていい」って言う意見が以前話題になった。しかし、たとえ高給だとしても、お金目当てで続けられる仕事ではない。むしろ低給だからこそ、若いうちに結婚して退職する女性保育士が多いのが現実。これは保育の質へと直接的に関わる問題の一つだ。
保育を学び、子どもたちと触れあい、「未来」よりも「未来に繋がる今」のほうが大切だということに気が付かされた。輝かしい未来を願っても、そのために今を生きる人々がまるで犠牲のようになることは、違うと思う。これはある意味で、カラマーゾフの兄弟における「大審問官」に通じるようにも思えた。