覇王の神殿 日本を造った男・蘇我馬子ープロローグ②
剣を抱えて去っていく俳優の背を不安げに見ていた入鹿だったが、やがて群臣を従え、縦に整列する三韓の使者の隣に並んだ。入鹿は大臣なので、整列した者たちよりも一歩前に出る形になる。続いて石川麻呂が進み出ると、入鹿の前に立った。石川麻呂は、「三韓の表文」と呼ばれる上表文を読唱することになっている。
今回の儀式は、三韓すなわち高句麗・百済・新羅三国が、大和国(日本)の仲立ちにより和睦を結ぶという誓約を皇極大王の前で誓うというものだ。
──入鹿よ、そなたは、この和睦を成立させることに心血を注いできた。しかもそれによって絶対的な権勢(権力)を築き得たと思っているはずだ。だが、それは違う。
入鹿の偉大な業績に心が折れそうになるのを堪え、中大兄は入鹿の政策が間違っていると思い込もうとした。
──三韓の和睦をまとめることで、そなたは大和国を含めて四国の頂点に立ったつもりでいるのだろう。そして群臣の力を結集して唐を討ち、この世の王になるという大それた野望を果たそうとしているのだ。
中大兄は、鎌足が語った入鹿討伐の大義に必死にすがり付こうとした。
このまま入鹿の思い通りにさせておけば、ゆくゆくは唐と戦うことになり、間違いなく大敗を喫します。さすればこの国は唐の一部になり、われらの多くが農奴とされます」
鎌足は半島の争乱に関与しないことこそ、この国を守ることだと信じていた。
その時、突然、「大王の出御」という史の高らかな声が聞こえた。続いて大極殿の奥から供の従女(女官・侍女)を従えた皇極が姿を現すと、石川麻呂を除く全員が拝跪の姿勢を取った。
拝跪の姿勢とは、左膝をついて両手を組み、頭を下げることだ。
──母上、お目を汚すことになりますが、ご容赦下さい。
中大兄は心中で皇極に詫びた。
佐伯子麻呂と犬養網田が入鹿を討った後、中大兄は大極殿の五級の階に駆け上り、この襲撃が正当なものだと皇極の前で宣言するのだ。
皇極が常と変わらぬ優雅な身のこなしで玉座に着く。その頭上には屋根があるので、濡れ鼠となった居並ぶ者たちとの対比が鮮やかだ。
位階に合わせた色とりどりの朝服を着た百を超える史と武官が、三韓の使者たちと共に大極殿の前庭に拝跪する光景は、まさに壮観の一語に尽きた。しかし誰もが、この雨に堪えきれなくなっており、一刻も早く儀式を終わらせてほしいと願っているに違いない。
──いよいよだな。
刻一刻と迫る勝負の時に、中大兄の心は身震いしていた。
やがて石川麻呂は立ち上がると、「三韓の表文」の読唱を始めた。
その時、ふと傍らを見ると、子麻呂と網田が震えているのに気づいた。
「しっかりしろ」
中大兄は小声で叱責したが、二人は心ここにあらずといった有様だ。
──何か落ち着かせる方法はないか。
その時、中大兄は水を持ってきたことに気づいた。
「これを飲め」
「は、はい」
まず子麻呂に渡したが、子麻呂はそれを飲むと、すぐに吐き出してしまった。
──此奴らはあてにできぬ。
二人が刺客の用をなさないのではないかという危惧がわき上がる。
「心を強く持て。必ずうまくいく」
中大兄の言葉にうなずく二人だが、その顔色は蒼白だ。
その時、石川麻呂の読唱が乱れているのに気づいた。遠目から見ても、手が震えているのが分かる。事前の打ち合わせでは、読唱が終わった直後に襲い掛かる手はずになっていたが、入鹿に不審に思われては終わりだ。入鹿を見ると、射るような眼光で石川麻呂を見つめている。
石川麻呂の声がさらに乱れる。いかに大王の前とはいえ、これだけ緊張するのはおかしい。
次の瞬間、石川麻呂が上表文の束を落とした。慌ててそれらを拾い集める石川麻呂を手助けするかのように入鹿は近づくと、その耳元で何事かを囁いた。おそらく「何ゆえ震えおののく」と問うたに違いない。首を左右に振りつつ石川麻呂は何か言ったが、その挙動はぎくしゃくしている。それを見た入鹿の顔が、さらに険しいものに変わる。
──もはや猶予はない。
だが頼みの子麻呂と網田は、とても入鹿を討てるような状態にない。
──やはりだめだ。今日はやめよう。
弱気の虫が騒ぎ始めた。
──だが、ここでやめたらどうなる。この儀式によって入鹿の功績が母上に認められれば、それに反対することは反逆に等しいことになる。
つまりこの儀式の後で入鹿を殺すことは、皇極の意向を否定することにつながるのだ。
──儀式を続けさせてはならない!
鎌足の言葉が脳裏によみがえる。
「蘇我氏は悪しき者たちです。彼奴らを滅ぼさねば、大王家は名ばかりとなり、すべての権勢は蘇我氏のものとなるでしょう」
──この国を入鹿のものにしてたまるか!
中大兄は槍を握り直すと言った。
「私に続け」
「えっ」
「当初の段取りでは、そなたらが入鹿を討った後、私が大王の前に進み出で、この襲撃の正当性を説くつもりでいた。だが、そなたらでは入鹿を討てぬ。私が最初の一撃を浴びせるので、それに続け」
二人が顔を見合わせる。
「分かったか」
「は、はい」
──入鹿め!
中大兄は憎悪の塊と化そうとした。
石川麻呂の読唱はさらに上ずり、入鹿の不審は頂点に達していた。群臣の中には、小声で何事か囁き合っている者もいる。
──これからすることは、この国のためなのだ!
長槍を捨てた中大兄は剣を抜いた。直感的に近接戦になると思ったのだ。
──どうとでもなれ!
大きく息を吸い込むと、中大兄が物陰から飛び出した。二人がそれに続く。
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