覇王の神殿 日本を造った男・蘇我馬子ープロローグ③
整列した者たちの先頭までは二十間(約三十六メートル)ほどある。その距離を誰にも邪魔されずに駆け抜けねばならない。
横殴りの雨が吹き付ける。すでに周囲は暗くなり、雷鳴も頭上で鳴り続けている。
砂利を踏む音に驚いたのか、そこにいる者たちが一斉にこちらに顔を向けた。だが何が起ころうとしているのかまでは分からないのだろう。武官たちも拝跪したまま動かない。
雨滴が顔に掛かり、驚く者たちの顔が次々と後方に去っていく。砂利に足を取られ、速く走れないのがもどかしい。それでも中大兄は懸命に走った。
異変に入鹿も気づいたようだ。しかし拝跪の姿勢のまま肩越しにこちらを見ているだけだ。おそらく、国家的儀式の場で襲撃されるとは考えてもいないのだ。
「蘇我入鹿、覚悟せい!」
言葉がった次の瞬間、天が割れたかと思うほどの雷鳴が轟き、青白い光が大極殿を照らした。
ようやく入鹿の顔に恐怖の色が浮かんだ。同時に居並んだ者たちが算を乱して逃げていく。だが入鹿は大臣という自らの地位を思い出したのか、その場から動かず、ゆっくりと立ち上がると腰に手をやった。だが、そこに帯剣がないのに気づき、顔色が変わった。
慌てて逃げ出そうとする入鹿の肩に中大兄の長剣が振り下ろされる。
──しまった!
最初の一撃は冠を叩き落としただけだった。入鹿が背を見せると同時に、中大兄は再び大刀を振り上げた。
「死ね!」
今度は手応えがあった。入鹿の袍の左肩から腰に掛けて裂け目が走ると、鮮血がる。
「何をする!」
振り向いた入鹿の顔は、怒りとも恐怖ともつかない凄まじい形相になっていた。
「なにゆえ──、なにゆえかような狼藉をいたすか!」
皇極の庇護を求めるかのように、入鹿は大極殿の方に逃れようとした。
皇極が立ち上がるのが一瞬、視界の端に捉えられた。
その時、背後から中大兄を追い抜いていった子麻呂が入鹿の足に斬りつけた。事前の打ち合わせでは、入鹿の動きを止めるため、第一撃は足と決めていたのだ。
入鹿は「おおっ!」という声を発すると、その場に転がった。それでも五級の階にたどり着くと、それを這うように上った。
そこに網田の一撃が振り下ろされる。
「ぎゃー!」
入鹿が鮮血にまみれながら振り向く。
その形相に恐れをなしたのか、子麻呂と網田は剣を構えたまま後ずさった。
「どけ!」
二人を左右に分けた中大兄は剣を振り下ろした。だが、鈍い音がして剣が折れた。腰骨に当ててしまったのだ。
その時、入鹿が玉座にいる皇極に向かって叫んだ。
「臣、罪を知らず。大王、何ゆえ私が、かような目に遭わねばならぬのですか!」
その言葉にかぶせるように、背後から入鹿の襟首を摑んだ中大兄が喚く。
「大王、この者の罪は明らか。この者は──」
中大兄は背後を見渡しながら大声で告げた。
「大王の座を狙っております!」
「何を言うか。大王の座に就けるのは大王の血脈のみ。それを心得ぬ入鹿とお思いか!」
「黙れ!そなたが大王の王統を廃絶させようと企んでおることは、誰もが知っている!」
中大兄が背後にいる二人に剣を渡すよう合図する。だが二人は足がすくんで階を上れない。
「どうした。早くしろ!」
彼らの身分では、大極殿の階を上るという行為が畏れ多くてできないのだ。
だが、これで入鹿に隙を与えてしまった。入鹿は懸命に皇極に懇願した。
「大王、私に叛意などないことは、大王が最もよくご存じのはず!」
皇極は啞然として中大兄と入鹿を交互に見ていた。この一件を起こしたのが自分の息子でなければ、すぐにでも捕らえるよう命じたに違いない。
──だが私は大王の子なのだ。
事ここに至れば、中大兄はその立場にすがるしかない。
「母上、どうかご聖断を!」
中大兄は、皇極のことをあえて「母上」と呼んだ。
その時、背後で「放せ!」という声がしたので振り向くと、子麻呂と網田が駆けつけてきた武官たちに取り押さえられている。
──しまった。
これにより、中大兄は武器を手にすることができなくなった。
続く皇極の言葉次第で、中大兄も捕らえられる。
──ここで母上が「この者たちを捕らえよ」と仰せになれば、私は配流となり、二度と飛鳥には戻れまい。もちろん王位に就くことも叶わなくなる。残された子麻呂と網田は入鹿の手で殺される。鎌足も同じだ。いや、配流地への護送途中に私も殺されるだろう。
そうなれば蘇我氏の支配は続き、その権力は大王一族を上回っていくに違いない。
「大王、私が何をしたというのです!」
入鹿が哀願する。
「母上、この者は大王の地位を簒奪しようとしております!」
その時、ようやく皇極が呟いた。
「朕は与り知らぬ」
皇極は玉座から立ち上がると、奥へと向かった。
「お待ちあれ。お待ち下さい!」
追いすがろうとする入鹿の背を踏みつけて振り向くと、武官たちの背後に鎌足の顔が見えた。
武官たちはどうしてよいか分からないのか、子麻呂と網田を押さえつけたまま、左右を見回している。
──誰かの下知を待っているのだ。
「皆の者、この者たちを捕らえろ!」
入鹿もそれに気づいたのか、肩越しに振り向いて命じる。だが入鹿の声は弱々しく、雨の音にかき消された。
「鎌足、これへ!」
「はっ」と言うや、鎌足が武官たちをかき分け、階の下に馳せ参じた。
「剣を渡せ」
「はい」
鎌足は腰の帯剣を外すと、それを厳かに捧げ持ち、入鹿を踏みつける中大兄に献上した。
「入鹿、覚悟しろ!」
再び雷鳴が轟き、閃光が入鹿の顔を青く照らす。
「よせ、何をする。わしを殺せば、国内は混乱し、この国は唐に蹂躙されるぞ」
「そんなことはない!」
「わしを殺しても、わが父蝦夷が健在である限り、そなたらは滅ぼされる。今ならまだ間に合う。そうだ、そなたを王位に就けると約束しよう!」
「何を言うか。これまで大王の威を借り、この国を支配してきたことを、いかに弁明するのか」
「弁明だと。わしには弁明などない。わしは仏意に従い、この国のために一身を捧げてきたのだ!」
「それは仏意ではない。そなたの邪悪な心のなせる業だ!」
「わしには邪悪な心などない。わしの心にあるのは──」
口から血を吐き出しつつ入鹿が叫ぶ。
「この国のことだけだ」
「いや、違う!そなたは己のことしか考えておらぬ。今こそ裁きを受けよ!」
中大兄が剣を振り上げる。
「何と愚かな。わしを殺せば、この国は滅ぶぞ」
「滅ぶものか。これが仏意だ!」
中大兄が入鹿の背に剣を突き立てた。
「あっ、く、く、ぐあー!」
入鹿の断末魔の叫びが耳朶を震わせる。
「逆臣、蘇我入鹿を討ち取りました!」
中大兄が誰もいない玉座に向かって叫ぶ。
「おう!」という声に振り向くと、鎌足たちが弓や剣を掲げて声を上げている。子麻呂と網田も、いつの間にか解放されていた。
入鹿が殺されたことで、流れが一瞬にして変わったのだ。
入鹿の顔をのぞき込むと、すでに息絶えたのか、瞳を閉じて微動だにしない。その顔に浮かんでいた無念の形相も和らいできている。
──天寿国への道を歩んでおるのだな。
息絶えた入鹿の背から剣を抜き取った中大兄は、それを天にかざした。
いつの間にか雨雲は去り、耳成山の上空に掛かる雲間から光が差してきていた。
「あれを見よ!」
中大兄が耳成山の方角を指すと、その場にいた者たちの顔も一斉にそちらを向いた。
「あの光こそ、わが行為が仏意であることの証しだ!これは新しき世の到来だ。われらは新しき国家を造るのだ」
「おお──」というどよめきとともに、群臣や武官が平伏する。
中大兄の掲げる剣に太陽光が反射する。
──私は勝った。勝ったのだ。
「うおー!」
中大兄が勝利の雄叫びを上げると、そこにいた者たちも快哉を叫んだ。
皇極四年(六四五)六月、飛鳥の地には光が溢れていた。
かくして乙巳の変は成功し、大和国の舵取りは中大兄と中臣鎌足に託された。大化の改新である。しかしその政治方針は、それまで政権を担っていた蘇我氏のものと一線を画しているとは言い難く、蘇我氏に集中していた権勢を、中大兄と鎌足が奪ったに等しいものだった。
では誰が、その大方針を打ち立てたのか。
この物語は、大化の改新の前代を生き、この国のカタチを作った一人の男の苦闘の足跡をたどったものである。
『覇王の神殿(ごうどの) 日本を造った男・蘇我馬子』好評発売中!(電子書籍特典あり)
【発売記念インタビューはこちら】
蘇我馬子は実は傑物だった? 日本最古の“悪役”の素顔を歴史作家・伊東潤が語る
【歴史コミュニティ歴史MINDによる座談会はこちら】
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?