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人生の親戚


河合隼雄氏の「中年危機」を読んだ。
既に私は中年の域を超え初老の域に突入してしまっているが・・・

本書には河合隼雄氏が深層心理を12のテーマ別に心理学的視点から神話的な普遍的な要素が滲み出ている物語をピックアップされ深く考察されている。
特に興味深かったのが「心の傷を癒す」というテーマでの大江健三郎氏の「人生の親戚」と自己実現の王道というテーマでの夏目漱石の「道草」。

大江健三郎氏の本はエッセイは読んだことがあるが、小説は初めて。
人生の親戚という単行本は見つからず、大江健三郎氏の全小説9を借りて、その中の人生の親戚を読んだ。長編で文体もやや複雑で一気には読めなかった。
読み終えて、河合隼雄氏の該当する部分を再読したが、河合氏の解説がなければとても解釈できない部分が多々あった。

心の傷の深さはさまざまであるが、主人公であるまり恵は二人の息子を自死で同時に失う。一人は身体は健常であるが頭脳は普通でなく、もう一人はその逆。河合氏は、頭脳と身体とが分断され統合をはかれなかったという十字架、傷は現代人に共通する文化の傷、社会の傷、時代の傷と語っている。
すなわち、特定の個人の傷ではなく、普遍的なものであると受け止めていくことで、読んだ人が自分と重ねて共感できるのだと。

癒してほしい、癒してあげたい、そのような感情が過剰になり、一挙にこれを成就したいと思ったり、したような気になったりすると、人間はセンチメンタルになる。しかし、それは真の癒しからはほど遠いものである。一挙ではなくゆるゆると時間をかけて行うもの

河合隼雄氏の中年危機から抜粋

河合氏の語られるセンチメンタルとは、まさにマドモアゼル愛先生の月星座による囚われと重なった。起こってしまった事実を、何故、私ばかりにこのような出来事がとか、他者と比較して自分の境遇を憐れんでしまうことの繰り返し。この月星座に囚われている限り、エネルギーが奪われていくばかりである。


一人の人間としてその全体までしみわたる感じで、「ああそうなのだ」と言うためには、物語が必要なのである。(中略)
まり恵の物語は、すなわち彼女の人生そのものである。(中略)
彼女はそれだからこそ彼女の生涯を映画にすることを承知したのだ、それは彼女の生涯ではあるが、既に述べたように、現代に生きる多くの人々と共有できる物語となるはずである。

河合隼雄氏の中年危機から抜粋

河合氏のコンステレーションを切り口として主人公まり恵に起こった出来事を物語として普遍的なものとして受け入れていくことの大切さを繰り返し語られている。
既に、以前に何度か繰り返した内容にはなるが、これはマドモアゼル愛先生の意識の学問を通しての意識の転換とも重なる。
私自身、ホロスコープを学ぶ中で、自分に起こる出来事や心理状態と惑星意識やサインの要素を重ねていく作業を通して、同じように「ああそうなのだ」と感じることが多々あった。

大江健三郎氏の「人生の親戚」のあとがきの一番最後にも以下のような文言で閉じられていた。
「まり恵さんの生涯について、僕はすでにひとつの小説を、自分の物語として了解できるように書いてしまっている・・・」

あくまでも私自身の感想ではあるが、大江氏ご自身も、物語を書きながらご子息の光氏の存在と重ねて、二人の子を同時に失った主人公まり恵の心理状態の変化をまさに普遍的な物語として受け止めておられたのではないかと感じた。




薫風やベンチに借りた本二冊

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