1分でわかる中華歴代王朝の概要 西晋 265-316年
西晋 4代 52年 265-316年 創始者 武帝・司馬炎 首都洛陽
魏の元帝の禅譲を受けて、司馬炎が帝位につき、晋はおこり、280には呉を滅ぼして天下統一。
郡県、封建の両制を併用し、新たに律令を定め占田法を施行して土地兼併を抑制したが、一族諸王を要地に封じたことから、のちに、八王の乱が起こり、五胡の侵入によって衰え、匈奴の劉聡に滅ぼされた。
好色皇帝・司馬炎
司馬炎は容姿がよく、女色にふけったことでも知られる。統一以前の泰始9年(273年)7月には、詔勅をもって女子の婚姻を暫時禁止し、自分の後宮に入れるための女子を5千人選んだ。さらに呉を滅亡させた後の太康2年(281年)3月には、呉の皇帝であった孫晧の後宮の5千人を自らの後宮に入れた。合計1万人もの宮女を収容した広大な後宮を、司馬炎は毎夜、羊に引かせた車に乗って回った。この羊の車が止まったところの女性のもとで、一夜をともにするのである。そこで、宮女たちは自分のところに皇帝を来させようと、自室の前に竹の葉を挿し、塩を盛っておいた。羊が竹の葉を食べ、塩をなめるために止まるからである。この塩を盛るという故事が、日本の料理店などで盛り塩をするようになった起源とも言われている。
八王の乱
290年~306年に起こった西晋の内乱。皇帝の司馬氏一族の諸王の権力争いであったが、対立しあう諸王が軍事力として匈奴など五胡と言われる北方民族の力を利用したことから、北方民族が中央権力を獲得するきっかけとなったことが重要な意味を持つ内乱であった。290年、西晋の武帝(司馬炎)が没し、子の恵帝が即位したが暗愚で精神障害があったため、皇后の賈后とその外戚が実権を握った。300年、諸王の一人趙王が賈后を殺害し、一時晋の帝位を奪うと、301年に一族の諸王も各地で兵を挙げて大混乱に陥った。このなかの有力な八人の司馬氏一族の王たちの争いを八王の乱という。
永嘉の乱
永嘉の乱は、中国西晋末に起こった異民族による反乱である。 懐帝の年号である永嘉から呼ばれているが、この反乱が実質的に開始されたのは304年かそれ以前であり、一応の終焉を見せたのは316年である。 この乱により西晋は滅亡した。
懐帝 西晋4代皇帝
匈奴の漢(のち前趙)の劉聡に捕らえられ捕虜となった懐帝は平陽に連行され、奴僕の服装をさせられて酒宴で酒を注ぐ役と杯洗いをさせられ、便所のふたを空け閉めする役や、劉聡が外出する際には日除けの傘の持ち役にされたりという屈辱を与えられ、人々からは晋皇帝の成れの果てと嘲笑されて屈辱を嘗めつくしたあとで、処刑された。
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