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【屠蜀】中国では、親が子供に「チョウ・ケンチュウが出るぞ!」と脅かすって何?

中国で子供がわがままを言うと、親が「張献忠」が出るぞ!と脅かすのは、興味深い文化的な現象ですね。この言葉は、歴史的な背景と伝説に由来しています。今回は、そのエピソードや由来。張献忠とそのかかわりのあった事象について書いていきましょう。ぜひ、お付き合いください。

わたしは、これまでに沢山の中国人技術者(SEやプログラマー)を雇用しており、また仕事上でのパートナーでもありました。

また、私の隣人の中国の男性は渋谷区の外資系企業で勤務する30代男性で、会社の上場を機に年収が2000万を超えたとかで、専業主婦の奥様、二人のお子さんを含めて、広大な自宅菜園を有する敷地内の戸建てに住む、大変豊かな暮らしをされています。また、中国の一流大学卒業の奥様の乗用車はベンツのSUVで、お子さんたちも英語と日本語が堪能という家族揃って優秀なご一家です。

さて、その中国の男性、ぶっちゃけ、名前は劉さんなのですが、もう我々二人で中国史を語りだすとキリがない。彼の名前に因んで、私が劉邦、劉秀、劉備について尋ねると、こと細かく意見を出してくれました。

「シーハン(西漢・前漢)は中国でもタン(唐)並んで敬愛されている理想的な王朝。リウバン(劉邦)は皇帝の鏡。彼は私の先祖(ジョークで)、ホウ・ハン(東漢・後漢)はワンマン(王莽)から漢を奪還した光武帝(劉秀)が素晴らしく、道徳観ある良い国だったが、とにかく戦争に弱かった。三国志のリウベイ(劉備)は日本では過大評価されている。本国でも人気はありますけどね」と。

中国史や日本史話が夜遅くまで及ぶこともよくありました。また、彼の奥様は毎回、美味しい手料理で、もてなしてもくれます。

真的很谢谢!(マジであざーす)。

さて、そんな彼ですが、中国の子供の受験の話をされると、人が変わったように言うのです。それは中国の科挙のような恐怖の受験地獄。どうやら教育虐待に近い、親の子に対する厳しい躾があるという。あちらの国でも日本同様に子供がゲームに熱中したりしていると、こう言って脅かすのだとか。彼だけでなく、どこの家でもそうらしく、ここ近年のトレンド・ワード。それが。。。。。。。

『親の言うことを聞かないと「張献忠👹」が出るぞ!!』

と脅かすのだそうなんですね。。。。

私は中国史マニアなだけに、その名前は心得ているのですが、親が子供を脅かして勉強させるのに、日本ではいまいちマイナーな張献忠の名前を出すとは流石に中国人の文化。

恐怖支配とバイオレンス。そして残虐性豊かな国民性なんだなー」

と、妙に納得もしたり、いや、自分が子供の立場だったら、たまったものじゃないとも思ったのでした。そして、それを聞いたお子さんたちは、恐怖の余りに泣き叫んで我に返り、机にしがみついて猛勉強を開始していくとのことです。。。イヤハヤなんとも。

それでは、中国史に特に今まで、ご関心のなかった人のために、張献忠とはいったい何者かをお知らせしておきましょう。

張献忠「心臓の弱い人は決して読まないで下さい😫」


張献忠(ちょうけんちゅう)は、中国明代から清代にかけて活躍した反乱指導者で、彼の名前は恐怖と暴力の象徴とされています。彼は
李自成の反乱に参加し、中国の歴史上最も有名な反乱の一つである大西国の乱を指導しました。

以下は、張献忠に関連する伝説的なエピソードです:

  1. 子供に対する脅迫:親が子供に「張献忠が出るぞ!」と脅すことは、子供たちに従順さを求めるための手段として広く知られています。この言葉は、張献忠の名前を使って、子供たちに恐怖心を植え付け、言うことを聞かせるために使われていると言われています。

  2. 張献忠の残虐行為:張献忠は反乱の指導者として知られており、彼の軍隊は中国の各地で略奪、強姦、虐殺、美少年官僚を一族もろとも惨殺など、ありとあらゆる暴力行為を繰り返しました。彼の名前は、その残虐行為と結びついています。

  3. 文化的な影響:張献忠の名前は、中国の歴史と文化において強い印象を残しており、彼の名前を使った脅迫は、親から子供への伝統的な教育方法として受け継がれてきた可能性があります。

  4. 総括すると、この言葉は、親が子供たちに従順さを求めるために、歴史的な背景と伝説に基づいて使われているものと言えるでしょう。

李自成張献忠は、中国の歴史において重要な反乱指導者であり、彼らの行動と国号について説明します。

  1. 李自成(りじせい)

    • 行ったこと:李自成は明朝末期から清朝初期にかけて活動しました。彼は李闖(りちん)の乱としても知られる反乱を指導しました。この反乱は、明朝の滅亡をもたらし、清朝の成立につながりました。李自成は北京を占拠し、天順帝として即位しましたが、その後、清軍によって滅ぼされました。

    • 国号の意味:李自成は「」という国号を用いました。この国号は、彼が明朝の正統性を継承し、天命に従って行動したことを示しています。

  2. 張献忠(ちょうけんちゅう)

    • 行ったこと:張献忠は明朝から清朝初期にかけて活動した反乱指導者で、大西国の乱を指導しました。彼の軍隊は中国の各地で略奪、虐殺、暴力行為を繰り返しました。彼の名前は恐怖と暴力の象徴とされています。

    • 国号の意味:張献忠は「西」という国号を用いました。これは彼が西部の地域を支配し、反乱を指導したことを示しています。

総括すると、李自成は「順」を、張献忠は「西」を国号として用いましたが、彼らの行動と国号は中国の歴史に深く刻まれています。

彼らの舞台となった、明末清初の歴史的出来事に目を向けましょう。以下はそれぞれの人物の行動と結果です。

  1. 崇禎帝(穀宗) (Chongzhen Emperor):

    • 行動: 明の最後の皇帝。李自成率いる順軍によって首都北京が陥落し、明王朝は滅亡しました。

    • 結果: 崇禎帝は煤山で首吊り自決し、娘の長平公主も斬られました。

  1. 順治帝 福臨(フリン)(Shunzhi Emperor):

    • 行動: 満州貴族の政治的影響力を減じ、反乱を鎮圧しました。

    • 結果: 清帝国の最後の敵である鄭成功と南明王朝の桂公を破り、清の統治を強化しました。

  2. ドルゴン 順治帝の叔父、清王朝のドルゴンについて要約すると、彼は満州族の皇族であり、明朝の滅亡と清朝の建国に大きな役割を果たした人物です。彼は武勇に優れ、政治的にも有能でしたが、中国の文化や風俗にも敬意を払い、多くの漢人からも尊敬されました。しかし、彼の死後、清朝は漢化政策を逆行させ、満州族の特権や服装を強制しました。これにより、漢人と満州族の対立が深まり、清朝の衰退の一因となりました。ドルゴンは清朝の英雄でありながら、その後の歴史に影響を与えた複雑な人物だと言えるでしょう。

3.呉三桂 彼は中国の歴史において重要な人物であり、後金(清初期)から清朝初期の将軍でした。彼の行動と結果を要約します。

  • 出自と初期の功績:

    • 呉三桂は遼東で生まれ、父の功績によって武将として取り立てられました。

    • 遼西の寧遠州城で明軍を指揮し、清からの防備に当たりました。

  • 清への降伏:

    • 李自成率いる順軍が北京に迫ると、呉三桂は清に味方し、清の中国平定に尽力しました。

    • 山海関で順と清の軍勢に挟まれ、呉三桂は窮地に立ちました。

  • 清への協力と後の反乱:

    • 清に降伏し、平西王に封じられました。

    • しかし後に清に背き、三藩の乱を引き起こしました。

  • 周王朝の建国と滅亡:

    • 周王朝(大周)を建国し、皇帝を称しましたが、清に滅ぼされました。

呉三桂は中国史上の複雑な人物であり、その行動は賞賛と批判の両方を浴びました。

これらの出来事は、中国の歴史において重要な節目であり、各人物の行動とその結果が国家の運命に大きな影響を与えました。.

これらの出来事は、中国の歴史において重要な節目であり、各人物の行動とその結果が国家の運命に大きな影響を与えました。.

👹張献忠 まとめ「朱全忠」もかなりヤバい奴だったな・・・・

「張献忠」の人間性をまとめると、残忍で狂暴な暴君であると言えるでしょう。彼は明朝の末期に起こした農民反乱の指導者でしたが、その手段は非人道的で恐ろしいものでした。

彼は自らを「大西皇帝」と名乗り、四川省を支配しましたが、そこでは数百万人もの民衆が虐殺されました。彼は人肉を食べたり、人間の皮を使って鼓や旗を作ったり、人間の頭や手足を積み上げて塔を作ったりするなど、残虐な行為に耽溺しました。彼は死後、「大西」の文字が刻まれた巨大な銅鐘とともに沈んだと言われています。

と言えば、唐末期の、朱全忠も名だたる悪人です。彼は唐朝の末期に五代十国時代を築いた軍閥の一人でしたが、その野心は暴走しました。彼は自らを「後梁太祖」と名乗り、唐朝を滅ぼしましたが、その過程では多くの皇族や貴族を殺害しました。

朱温(朱全忠の本名)。「全忠」は親分格の黄巣を裏切り全滅させたため、唐皇帝から賜った。彼の家は貧しく少年時代に父を失ったため、2人の兄と共に母の王氏に連れられ親戚にあたる蕭県の富豪の劉崇の家で小作(畑仕事や家畜の世話)をしていた。だが、朱温は畑仕事など平凡で退屈な仕事と頭から馬鹿にして少しも精を出さず武術に興味を示し、独学で棒術や拳法の腕を上げて「ごろつき朱三(朱家の三男の意)」と呼ばれたという。また、朱温は気性も荒く里人の多くに嫌われ、主人の劉崇からはたびたび杖や鞭で咎めを受けたが、劉崇の母だけは高く評価し常にかばったという。

彼は皇帝に即位した後も、自分に逆らう者や気に入らない者を容赦なく処刑しました。彼は死後、「後梁」の文字が刻まれた巨大な石碑とともに埋葬されました。

「やつら(唐の官僚・エリート)は、「清流」だと気取っている。ここは一丁、「濁流」にまとめてぶち込んでしまいましょうや」

という部下たちの進言に耳を貸して、それを実行してしまいます。ここに南北朝時代から続いた中国における貴族はほぼ全滅したとのことです。

天祐2年(905年)、腹心の李振蒋玄暉らが唐の高官らを黄河へ沈めるべきと建言すると、朱全忠は裴枢独孤損崔遠王溥趙崇ら唐の高官30余人を河南の県尉などの下級地方官に一斉に左遷した。そして、彼らが任地に向かわせる途中の白馬駅で彼らを処刑して、その遺体を黄河に遺棄した(「白馬の禍」)。

朱全忠は、麻を割くがごとく人を殺し、部下・捕虜・士人に対しては、等しく殺人的な性格で接しており、その残忍さは歴史上前例を見ない。後に、後梁の謀士の水準は、李振や敬翔などの失意のうちにあった文人の水準にとどまっており、そのため、朱全忠の生前においては、李存勗をはじめとするその他の軍閥を徹底的に排除することができなかったとされる。

北宋欧陽脩は、『新五代史』「梁家人伝」において、「梁の悪は極まった。盗賊から身を起こして唐を滅ぼすまで、その遺毒は天下に広まっている。天下の豪傑は四方八方から立ち上がっており、胸に刀を刺そうとしない者があろうか(いや、誰でもそのようなことをする)」と批評している。

Wikipediaより

これらの二人は、「忠」という字を名乗りながらも、その意味に反する行動を繰り返しました。彼らは歴史上の最悪の暴君として記憶されています。彼らの「忠」は、誰に対しても忠実でなく、ただ「自分の欲望に忠実」だったのです。

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