藤本タツキ ルックバック感想

「ルックバック」という作品は150ページに満たない量の、漫画描きの少女たちのあっけなく終わった青春についての短編だ。この作品は主に2つのことを伝えようとしているように見える。その1つは大きな悲しみに対して、人はどのような態度を取るべきかという現代的な課題で、もう一つはものを作るということの意味という倫理的な課題に対する答えである。

(あらすじ)主人公の藤野が小学四年のときに同じ壁新聞に連載をしていた、京本という少女と交流を持つところから物語は始まる。藤野は会ったことのない京本の才能を認め勝手にライバル視していたが、後々京本も同じ様に藤野の背中を見て努力していたことを知る。二人は協力しながらプロデビューを目指すことを決意するも、デビューの直前で二人の進路は離れてしまう。心のなかでは一つの夢を追いながら別々の進路を選んだ藤野と京本だったが、2つの道が再びつながることはなかった。藤野は京本が凶刃によって亡くなったことを報道を通じて知ることになる。藤野は漫画を描くことを辞めた。自分が関わったせいで京本は創作の道を目指し、凶行にあったのではないかと考えるようになる。そして頭の中でものがたりを紡いでいき、(劇中劇という形で)京本の死を回避した優しいが都合の良い選択を示した後に、その選択を拒否してふたたび現実に戻る決意をする。立ち直るきっかけとなったのは、劇中劇の中の京本が描いた4コマ漫画の続きによってであった。

最後のコマで示される2つの作品(タランティーノとオアシス)から、この作品がテロにまつわる問題意識から立ち上がっていると知ることができる。しかしその解決は先行作品よりも厳しいものになっている。

この漫画のちょうど半分までは、典型的な青春物語と同じ筋道をたどる。彼らの生活の中心にあるのは常に漫画であるが、その描写は奇妙なほど擦り切れて見える。漫画を描く描写は物語の中で、時間の経過を示すという機能を与えられている。カメラは一方向から部屋を一方的に映すが、小物やモノの増減によって物語内の時間が過ぎ去ったことを教える。彼らの生活の内実を示す描写はあるが、貧困だ。それは彼らの生活が漫画を中心に回っているといると同時に、漫画という総合芸術が若者から多くの時間と経験を奪うことも示唆している。つまり作業が単調で退屈なものに見えることによって、漫画を描くということの難しさ・積み重ねられた時間の重さを表しているのだ。描く行為を記号として扱うことで、その行為を個別の体験を超えたものにしている。表現する者全てに当てはまるような広がりが、あたえられているといえるだろう。そのような表現を取る理由は加害者の存在を直視することで、初めて理解することができるようになる。

つまりこういうことだ。描くという行為の前ではすべての存在が等しい。であるのなら、誰も特別扱いされることはなく互いに競争を強いられ続けることになるはずだ。漫画の中で出てくる漫画描きがすべて等価であるなら、あらゆる立場は取替が可能なものとなり安全な場所はどこにもなくなってしまうのだ。2人が掴んだ連載という栄光の影には当然のことながら無数の叶えられなかった夢がある。加害者は物語の中に突如現れたように見えるが、その実同じコマの中に交換可能なものとして止め置かれていたのだ。残念ながら彼の存在を読者は認めることができない。読者が見ることができるのは競争に勝つことのできた才能のある一握りの人間だけだから。それ以外の人間はどうすればいいのか。どうすれば人の目に触れることができるのか。その答えもすでに作品内で示されている。

作品は藤野が現実を受け入れる形で終わる。全てが交換可能であるのなら、彼女が救われた理由は作者の恣意によるということになってしまうだろう。しかしそうではない。彼女が救われた理由こそ、作者が考える創造することの意味だと言えるのではないか。藤野は作中「漫画なんてなんの役にも立たない」と一人ごとをいう。もしも作者が作ることと成功することとを同等のものと捉えているのなら、ここで物語は終わっていただろう。藤野は回想の中で、どうしてつらい思いをしてまで漫画を描き続けるのかと京本に問われる。彼女の答えは自分の描いた漫画が、他者に受け入れられたという記憶だった。藤野の根底には誰かを喜ばせたという経験と、喜ばせたいという願いがあり、それがあることによって積み上げられた全ての時間が無駄なものにならないのだ。彼らが漫画に費やした時間は、手段ではなく目的そのものなのだ。藤野と京本には誰かの心の扉を開けた・開けられたという経験があり、加害者にはそれがなかった。もしそのような体験なり経験が合ったのならば、未来は違ったものとなったはずだ。

ものづくりの根底には、プリミティブな感動があり、それは資本の動きとは関わりのないところにあるというのが1つ目の答えなら、もう一つの問には何と答えればいいのだろうか。

作品には扉が象徴的に出てくる。京本と藤野が出会うのも扉越しで、藤野が救われるのも扉が大きなきっかけとなる。扉を開けるという行為は2人の不幸の原因にもなっているが同時に、喜びのきっかけにもなることから、両義的な意味を担わされていると言えるかもしれない。扉は人と人とが心を通じ合わせるメタファーとしてこの物語内で機能しているのだろう。物語の終盤で京本の漫画に導かれて、扉を開いた先に見えるのは窓(外部)に貼られた4コマ漫画の続きであった。振り返ると扉を隠すように、思い出のどてらがかけられている(背中には藤野の名前が大きく書かれている)。これは京本が藤野との出会いを悔いていないというメッセージとして働き、文字通り彼女の背中を押してくれる。安易な結末を壊してでも選択されたのは、京本が殺された一回限りの人生であった。起こることが確実にわかる未来を藤野は選択することで、自分たちの過ごしてきた過去を悲劇を含め全肯定することを選ぶ。これこそがテロリズムが与える押し付けられたニヒリズムに対する、最大限の防衛策となる。2つ目の答えは1つ目の答えの隣にそっと、置かれてあったのだ。