大人になりきれないあなたへ。

宮澤賢治を知っている人は多いと思うけれど、
彼の童話の中でも、『黄いろのトマト』を知っている人は少ないんじゃないだろうか。

ある兄妹のかわいそうな話である。
そのかわいそうな話を、博物館に収められている蜂雀のはく製が少年に語った話であり、
さらに、その思い出を大人になった少年がその話を書きとめた話である。

このかわいそうな童話は、かわいそうと思える人と思えない人がいるだろう。

かわいそうな兄妹は、子供である。
大人と出会うことなく、たった二人で愉しく暮らしていた。
二人は、育てていた黄いろのトマトを黄金だから光っていると思っているのだ。

この話を純粋と思うか、無知と思うかによって、読み手の感想は変わってくる。

人は無知を馬鹿にしがちだ。
無知ゆえの純粋性を許せなくなっていく。
それは歳を重ね、経験を積めば積むほど、知識を蓄えれば蓄えるほど、そうなりやすい。
年齢的に大人になればなるほど純粋性を理解できなくなりやすくなってしまう。
それは、責められることではない。
大抵の人は二人だけで愉しく生きている兄妹とは、違う世界に生きている。
社会の中に生きるということは、最低限の経験や知識を共通の認識で共有していかないと成り立たないものだから。

この童話では、子供の頃にかわいそうな話を聞いた少年が、大人になって思い返して書きのこしたものとして描かれている。
大人になった少年は、少年の頃に聞いたかわいそうな話をずっと覚えていて、忘れられなかったのだ。
つまり、彼は純粋性を理解し続けている。
大人でありながら、子供の純粋性を忘れられなかった人なのだ。

大人になりきれないというのは、そういうことなのかも知れない。

大人になりきれないというと否定的な意味でとられがちだ。
社会で生きづらかったり、大人な周りの人たちとうまくいかないこともあるだろう。
だけれども、子供の頃の純粋性を理解してあげられるのは、なんだか幸せなことなんじゃないか。
そう思わせてくれる、素敵な童話です。

※青空文庫でも読むことができるので、ぜひ読んでもらいたい作品です。
個人的には、もし手元に残すことがあるなら、パロル舎の絵本がとてもかわいらしくて、おすすめです。

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