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その54 「終わりのあいさつ」必要ですか?〜教場指令法〜(2149文字)

1 はじめに

 小学校では、授業の始まりと終わりに全員揃って、あいさつをすることが多いです。
 日本教育の定番なのかもしれません…。

 全員が揃って、静かに、落ち着いて挨拶ができる子どもの姿を大切にする先生もいらっしゃることでしょう。

 このような事実があるなか、今回は、特に

    授業の挨拶

について、少し考えてみます。

2 校内研究の方針などで

 小学校現場で、よく見られるものに、校内の研究テーマを達成・実現する一つの方法として「授業の始まりと終わりのあいさつを確実に行い、授業と休み時間との気持ちの切り替えを促す」みたいなことが、あります。

 また、学校のきまりとして、授業前後のあいさつが定められている学校もあるようです。

 この「あいさつ」という言葉の解釈を誤ると、あいさつそのものが、目的化している事実に出会うことも少なくありません。

3 授業の挨拶 〜「教場指令法」〜

 授業のあいさつは、勉強モードへと切り替える為に有益なものと考えられなくもありません。

 短い時間で、約40人以下の子どもの気持ちを切り替えさせ、授業に向き合わせる手段として、先人が編み出した『技』なのです。

 「授業のあいさつ」の起源について考えてみましょう。

 明治初期、日本国において、アメリカに倣う形で、「教場指令法」というものが制定されました。

 その法により、どこまでの影響かは計り知れませんが、少なくとも、軍隊的要素を見てとることができます。

 例えば、現代のように、児童が登校すれば、教室に、自由に(ばらばらに)入ることは許されませんでした。

 まず、全員が来るまで、廊下で待つ。
 そして、全員揃って、決められた時間になると、「一、ニ、三…」の号令に基づいて、行進のうえ、教室に入る。

となります。

 同様に、挙手や授業の号令についても定められています。

 本題である、授業の号令について言及します。

 「教場指令法」では、府県によって、文言は異なりますが、
    修礼(ノ指令
     一 起立セシム
     二 礼セシム
     三 席二復セシム
と定められていました。

 時代を鑑みるに、明治時代になり、「寺子屋」から「小学校」に変わりました。

 また、
    「師匠」は、「教師」に
    「個別指導」は、「一斉教授」
等に変わりました。

 軍隊の管理方式を参考に、学校で子どもを管理する一つのシステムとして成立したのです。

 明治時代、厳格な秩序と規律を維持しなければ、目の前にいる40人以上の子どもを、当時の未来社会に適合する大人へと教育できなかったのでしょう。

 また、更に、アメリカに倣い、「等級制学級」を目指していた事実もありました。

 学級全体で授業進度を保つ為に、均質な学力の子どもたちで学級を編成しました。

 学級のなかにいる、子どもたちは、ある程度「学力」が似通ったレベル、つまり、現代でいう「習熟度別」のクラスだったのです。

 だからこそ、一律に一斉に、あいさつを求めるシステムが成り立ったと考えることができます。

4 考え直すべき現状のあいさつ

 見るたびに悲しくなる、現代の終わりのあいさつに触れます。

 授業終わりのチャイムが鳴りました。
 が、多くの子ども達は、集中して学びに、のめり込んでいます。

 このような学びの事実から考えると、先に述べた理由で、絶対と言っていいほど、全員が揃ってあいさつすることは難しいです。

 しかし、先生たるもの「はい、チャイムが鳴りました、(全員で)あいさつをします、続きを書きたい人は、あいさつの後にしてください、鉛筆を置いて立ちましょう、みんなが待ってます」等と言います…。

 ノートに何かを書き留めていた子どもも、あいさつをしなければならないことから、手を止めざるを得ません。

 誰かから「勉強しなさい。」「学びなさい。」と言われた訳でもなく、授業が終わっても学び続けようとしているのにも関わらずです。

 また、更に、先生たる大人は、この指示と相反する、自主的に学ぶ子どもの姿、主体的に学ぶ子どもの姿を思い描いているのです。

 子どもの自己肯定感に悪い影響をもたらす、張本人が教師そのものになっている事実にも気が付かないのか、付いているのか…。

 このような光景を見るたびに、とてもとても悲しくなります、なんとも言えない気持ちになります…。

 学びの本質が、置き去りにされているのではないでしょうか。 

 今は、授業の始まりに、子どもにとって、魅力的な課題を提示したならば、気がつけば、すべての子どもが学びに夢中になっていた、ということを考える時代です。

 『主体的・対話的で深い学び』や『主体性』について考えることで、自ずと学校のあり方、先生のあり方に『問い』が出てくるものです。

 このように授業や子どもを捉えると、授業のあいさつを維持することは、とても難しいと言わざるを得ません。

5 おわりに

 以上から、授業のあいさつの必要性について、深掘りしてみました。

 長々と書きましたが、「授業あいさつ」は、時代背景に支えられていたものであると再認識したうえで、新しい境地へと向かっていきたいと思いました。

 これまで行われてきた『当たり前』を、同僚らとニュートラルな気持ちをもって、考え合いたい今日この頃であります。



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