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41.昭和21年6月14日 旧ソ連の軍事力と教育を感じる汽車の旅

 早朝、転出者の集合がかかったから、転出者一同連れだって部屋の人と廊下で別れた。
 本館に行き、そこの食堂でこの病院最後の食事。
 食後、本館、別館の選抜栄養失調の弱兵は、合流して本館前に集合した。
 両方の病棟とも、窓という窓から残留する兵が首を出しているのが見られた。
 タオルを振っているのもいた。

 第12号室の菊地曹長以下80名。呼名と人員点呼。
 隊長の菊地曹長より、日本軍側の軍医に転出の申告がすんでから歩きだした。
 もう夜はあけてはいたが、入通りのあまりないヒイロク市を行進して駅に着いた。駅の引き込み線には、アメリカ製の大型蒸気機関車に炊事車が3輌連結してある30数車輌からなる大列車が到着していた。
 私達と同じような患者の群が下車していて、あちこち散歩していた。
 それらは、さも嬉しげに見えた。
 「ここは、どこか。」
 「満洲里マンチュウリまで、ここから何日かかるのか。」
 「チタまで何日かかるか。」
 「我々はどこからどうきたのか、方角が分からない。」
 など現在地のことを言ったり、聞いたりしていた。
 私達も、
 「何大隊か。」とか、
 「どこから来たかのか。」
 「この汽車はどこへ行くのか。」
 などと聞いたりした。

 各自決められた車輌の前まで行って待った。
 自分の乗車する車輌のところで、1人について毛布1枚、藁布団1枚、枕1個、敷布1枚の支給を受けた。
 1車柄に12名か13名の割り合いで分乗することになった。
 貨車とはいっても、病院列車だった。外側は白色に塗ってあって、赤十字のマークが付いており、内部には青松の小枝が、1尺あまりの厚さに、ぎっしりと敷きつめてあった。
 その上に藁布団(柔かな小枝入り)を敷いたら、病院の寝台よりももっとふわふわしていた。
 私達の車輌では第12号室にいた中村伍長が車長となった。
 各人ごとにゆったりと場所をとり、長々と寝そべった。
 風が入って車内のものを飛ばすといけないので、片方の戸は閉めきり、もう一方は昼の間だけは開いたままにして、移りゆく車外の景色を眺めた。
 寝ている敷物は厚く、広軌の鉄道線路のため横揺れも少なかった。少しも疲労することなく、また、飽くこともなく10日間にもわたるシベリヤ鉄道を南下する大旅行をすることができた。

 「おい、俺達は極上の特急寝台車で、ご飯の上げ下げもしてもらい、全く、国賓待遇じゃないか。」
 「馬鹿なこと言うておれ、目のさめたときは樺太カラフトか、それとも要塞工事※だ。」
 など、好き勝手なことを話し合った。


※要塞工事
その工事が終了したら射殺されるという陰語。



 日数が経つにつれ、この列車は確実に南下していることには間違いないということに誰もが気づいてきた。
 ヒイロク市の付近では1寸ぐらいしか延びていなかった麦のたけが、(1寸は約3cm)南下するにつれて大きくのびていた。海の見えだした頃になると、同じ麦でもそのたけが2尺以上にもなり、穂のでているところもあった。(1尺は約30cmだから、3尺は約1mの長さになる)

 ……復員してから初めて知ったのだが、これが【ヤロビ農業】というものであった。つまり、私達がヒイロク市付近で見た麦は「春播き小麦」だったのである。麦というものは、秋に播くものということしか知っていなかったから、3cmしかない麦が、同じ国の中で、場所が違ったら1mのたけになったと思って驚いた。その頃の私達の知識では「春播き」「秋播き」など、種別の違う麦があるということなどは想像外のこと……

 朝から夕方まで、一望千里の草原だけ、汽車の両側を開いてみたら、両側とも地平線まで広がっている大荒野。また、日本とは全く正反対に、牛馬が放し飼いにしてあって、畑にだけ高い木の棒杭で柵がしてあった。
 それらの家畜類が畑を荒さないように柵をする国と、家畜が逃げないように柵をめぐらす国とでは、それらのものの価値観も違ってくるではなかろうか。

 持てる国の憂いは恵まれない日本の国の憂とはだいぶ違うようだ。
 一体、どこにこれらの家畜の飼い主がいるのか、民家があるのか、まるで天から降ったようにも思えるおびただしい多数の牛、馬、羊の大群。
 それに、とにかく広い野原。
 満洲国で見た新京(長春) 安東の間、または、吉林市と図門トモンとの間の大平野など全然そんなもの比較にはならない。もともと、それらとは比較の次元すら異なる。
 大平原の見えている間が、何時間?……何日間?……の比較になっている。
 そうかと思えば、朝、昼ぶっとおし、大木の繁った山また山、大木が、枯れたままにしてあるかと思えば、大きな熊の死体も鉄道線路の近くの山の中に長々と横たわっているのも見えた。
 ところによっては山火事の跡もあった。

 しかし、この雨の少ない※シベリヤだのにと思っていると、びっくりする程の大きな河が山々の間を縫っていて、ソ連の民間人が魚釣りをしている場面にも何回か出くわした。


※雨の少ない
チタ州では雨が少なく、病院にいるとき、たった1回だけ雨がポロポロしたときには、「雨が降る」というので、わざわざ通訳が部屋まで知らせにきた。そのときは、患者は庭に出て、手のひらに、ぽつん、ぽつんと当った雨で、雨の降ったという感触を得た。そのぐらいだから病院でも空気は乾燥しており、昼食にもらったパンは、夕方にはポロポロした。煙草の配給をするときにはロスケの看護婦さんが、食堂の床の上で、煙草の山の上から散水するのを見ていた日本兵は煙草を水増ししていると話し合っていたが、これは水増しではなく、そうしないと煙草がポロポロの粉になってしまうという通訳の説明で、誰もが納得した。



 あまり深山ばかりが続くと、しまいには、私達はひょっとすると人類の生息している場所とはおよそかけ離れた人類未到の山奥に置きざりにされるのではなかろうか、という感じになったりした。
 3時間も4時間もぶっとおしに走ることが多かった。
 1時間も2時間も駅らしいものもなく、人家の見えないこともあった。
 走った割り合いにはトンネルがなく、日によってはトンネルが1つもないこともあった。
 私達は駅に到着するごとに、ロスケの地方人に、
 「カトリュー、チャッスイ。」(今、何時ですか)と時刻を聞いていたから、時間は割と正確に計ることができた。

 10日間にも及んだ汽車旅行であったが、寝ころんで外の景色を見ることができた。
 貸車でも日本の汽車旅行とは想像もつかない好条件、上待遇。
 この旅行と同じ期間、広軌の鉄道で日本国内を夜も昼も走ったらどうなるだろうか。
 青森市から鹿児島市までを3往復しても、まだ、時間は余るではなかろうか。
 ヒイロク市より、最終の下車したポセット湾までの長距離間が、ずっと複線であって、ところによっては複々線の区間もあった。
 広軌の鉄道路線である上に複線、または複々線というと、「いざ鎌倉」という場合には、ソ連のもっている輸送能力はすばらしい力を発揮するものと思う。
 毎朝、停車した時に炊事車から朝食を配ってくれた。
 それと同時に、ヒイロク市の1936病院の女医さんと同じように(車の下から上を見上げて)問診していた。
 彼女らは、肩の階級車には☆が2つか3つだったから、小尉か、中尉だと思われる。
 たぶん、医専出身のほやほやではなかろうか、どの女医さんも若かった。
 彼女らの中には日本語を覚えたのもいたようで、日本語とロッシャ語とを織りまぜて聞くのもいた。
 「下痢イエス?」(下痢患者はいないか)
 「チンピラトウ、イエス?」(熱のある者はいないか)
 「繃帯、イエス?」(繃帯のいる人いますか。怪我人はいませんか)
 「ドクトル、ダワイ 繃帯、アジェン、イエス。」(お医者さん、傷のある人1名います)
 「ダワイ。」(承知しました)
 「ちえっ、紙の繃帯じゃないか。あれまあ、気前よろしくくれると思ったら、これ、日本薬局方だ。」
 毎朝、このようなやりとりを車輌の中の患者と、車の下に立っているソ軍の女医さん連中としていた。
 車輌の外から戸を開いて聞くだけだから、誰も面白半分になって、繃帯やらアスピリンをもらったり、訳のわからない水薬なんかを飲まされていた。
 あとで別段、何ら反応らしいものを訴えた者がいないところをみると、毒でもないが劇薬でもなかったようだ。

 輸送中の給与は概して良好で、煙草、煙草の巻き紙、棒たらを1人当り50匹ぐらい(この棒たらの千物はまるで薪のような感じで、各人が束ねていた)、砂糖を飯盒の中蓋(かけどうともいっていた)に1杯ぐらい、小箱マッチ1箱、紅茶を飯盒の蓋に1杯(紅茶には至ってなじみのない者が多く、たいてい、港に着くまでには煙草やミルクなどと物々交換していた)などが食事以外の給与品であった。
 毎日、これらの給与品が1日に1回か2回はあったから、皆もそれを楽しみにして待っていた。
 干物の棒たらなどは、北朝鮮に上陸してもまだ食べずに持っていた者もいるほど多かったが、これは、皮をはいで食べればいくらでも食べられた。この干物を食べると、あとになってから喉が渇わくということで案外皆から敬遠されていた。


 田舎の駅
 シベリヤの田舎の駅などは、どこがプラットホームか区別のつかないようなところもあった。
 駅を警戒している執銃のソ軍兵だけが目立った。
 5~6人の子供がいた。
 まだ6才か7才ぐらいではなかろうか。
 その子供の集団が私達の車のところまで近よってきた。
 「ヤポンスキー、ダイ、タバーコ。」(日本人、煙草をくれ)と言った。
 面白い、子供が煙草をくれといってやってきている。1本やってみるか、ということで、車内の誰かが1本巻いてやった。
 するとその子供は「スペーチカ、ダワイ。」(マッチを貸してくれ)という。
 火を貸してやると驚いたことに、この子供は、さもうまそうにその煙草を吸いだし他の子供が私達にも手を挙げて煙草の催促をしてきた。

 これが果して自由なのだろうか。
 冬の農閑期にしか勉学する制度にはなっていないといわれているシベリヤの子供の質の悪いこと、とても敗戦後の日本どころではない。
 これは、高い自尊心と教養の低いロッシャ人を作りあげ、『自分の国こそは世界中で無比の優秀な国だ』という宣伝を多数の国民が信じているといわれるソ連邦国家の裏の舞台の一部分を暗示していたのかもしれない。

 軍備力では、私達のような素人がみても、あの広大な満洲国の東側国境に平行して走っているシベリヤ鉄道周辺の警戒のものものしさ、鉄道が南下するにつれて、その厳しい防備態制には驚嘆以外のなにものもなかった。
 アムール(黒竜江)の下流では、いたるところにある広い沼地の中に一面に顔を出している戦車戦に備えての棒杭群、野ざらしにしてある爆弾の山、初めて見た装甲列車とその積載してあった長身の巨砲、ずらりと並んでいる高射砲、複線のため強力な輸送力、数多い飛行場……どれをとりあげても日本の国の軍備よりは数段上のように思えた。
 軍備力の強さを維持するために、国民の生活は極端なまでに不自由をさせ、かたことの英語すら分らない中堅将校の多数によって指導されているソ連軍隊は、その武力の強さだけがそれを支えているのではなかろうか。

 世界の一等国のソ連の国民が、レントゲンの透視に眼をみはり、アメリカ製の蒸気機関車を自慢していた。この現象は一党一派しかない独裁国家クレムリンの国民支配下の一小部分かもしれないが、復員してみたら、やがて、当時は世紀の薬品とまでもてはやされた「ペニシリン」の別途製法を発見した五等国の日本の方に、これからの進む道に何か大きな光明があるように思った。

 両端を執銃の兵に警戒されている鉄橋、駅ごとにいる警戒兵、どこまで続くのか延々と果てしない有刺鉄線を張った棒杭の列、野ざらしのままの砲弾、爆弾、防空兵器、頑丈な棒杭に支えられた鉄道線路わきの散兵壕を兼ねた排水溝、戦車の大群、軍用自動車の群、町々に翻える大小の三角な赤旗、列車の南下するとともに、益々強固さを増していた軍備の状況には、誰も眼をみはり、驚嘆の声をあげた。

 鉄道沿線に板塀を立てたり、高さ15m以上の地点からの写真撮影を禁止していた日本の要塞地帯などに適用されていた軍事保護法というのは一体何を隠していたのだろうか。
 まさか、これということはありません、無防備です、ということが露見しないようにと、その無防備、または貧弱な軍備を見られることを隠していたのではあるまいが……「諜者は常に身辺にあり」と、日本国民にだけはひた隠しに隠していたはずの、瀬戸内海の一孤島の毒ガス製作所の地名、地点が、ドイツや米国側には筒抜けしていたということを、復員してから新聞記事で初めて知ったが、驚くよりもあきれた。

 戦時中は国の内外を問わず、大いに幅をきかせていて、国民の思想取りしまりのための特別高等警察(特高と呼ばれていた。戦後は、憲兵とともに政治活動の禁止、公務にはつけないなどの追放令の適用を受けていた)とか、軍人ばかりでなく民間人までとりしまりだしていた憲兵などは、何をしていただろうか。
 進駐軍側の考えた追放令でなくて、日本側より考えた追放令で、こんな職務怠慢の職員は追放したがよいかもしれない。
 こんな無能な役所や機関をいくら作っても、いくら経費を入れ足してもたいして国益にはならない。
 戦争犯罪者追放(これを単に戦犯追放といっていた)にことかりて、余波を浴びて、彼等が転職の際、各種の公務につけなかったことは気の毒なようでもある。

 ヒイロク市を出発してから8日目か、9日目頃より海が見えだした。
 ずいぶんと南下したもの。外を歩く人影も暑そうに見えた。
 もうそろそろ下車ではないかと話し合っていた。
 駆逐艦などが島陰に停泊しており、ポンポンと焼き玉エンジンの魚船のような船も往来していた。港の長い長い防波堤のところどころで釣りをしているのも見えた。
 1年ぶりに見えた海によって、一気に内地の空までとんでいったような気がした。

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キンクーマ(祖父のシベリア抑留体験記)
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