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 この病院の給与は、1日に2回の薬と3回の食事、1日に10gの割り合いの煙草と、時たまくれるマッチ、石鹼、煙草の巻き紙、自由にいつでも飲める紅茶。(時には、その紅茶が砂糖入りのときもあった)
 患者に生水を飲ませないため、朝の洗顔、便所からでて手を洗うなど、すべてこれを紅茶でさせられた。紅茶での洗顔にはそのうちに慣れてはきたが、砂糖入りの紅茶の洗顔にはなじめなかった。
 それに、時たま、ちょっとした使役の報酬としての、こげの残飯などがその全メニュー。

 食事は、朝は6時、昼は12時、夕食は午後の6時。
 ここでの6月頃は、朝は3時頃には夜があけ(夜は10時頃まで明るくて、部屋の中でも新聞を読むことができるぐらいだった)昼の間の時間がとても長かった。

 ……この現象を【白夜】というのだとはそのときには知っていなかった……

 食事から食事までの間には、次の献立ての下馬評をしていた。
 食事の内容になると、その質はよかったが、量が少ないため腹をすかせており、とか<食べ物のことが話題の中心になった。……隣の部屋では2人に1個の割り合いでパンの特配があった、めしあげの順番が本館よりも早かった、スープを1杯よけいにくれた、ミルクに砂糖があまり入っていなかった……
 結局は、話題の中心になるものはこの程度のものでしかなかったが、患者にしてみればどれもみんな重大事件であった。

 カーテンがかかり、テーブルかけのかかったテーブルで椅子に腰を下ろしていると内地の食堂にでも入っているような雰囲気だった。
 ロスケの食事方式は、昼が正餐で、スープ、パン、糊のようなご飯、ミルク(たいてい砂糖入りだった)、塩鮭の塩抜きしたものの煮物が一きれ、それに肉が一きれついた。
 朝食と夕食は、これまた1粒1粒、米粒が完全にのびきったような糊のようにべたべたしたお粥だけで、副食は全然なかった。このお粥には、油がかけてあったため、下痢をしている者はなるべく大鍋の底の方の油のかからないところをもらうよう、通訳の方より、食事の分配しているロスケのマダムに話していた。
 油は毎食のお粥に入っていた。それがあると栄養分が充分とれたとしても、朝夕副食がないのは日本人にはなんとなく変だった。
 毎回のように、スープだけは私達の話題にのほった。

 初めてチタ市から味噌が入荷した時には、患者の中から、味噌汁作りのための指導に出向いたとか、味噌汁というのは、ソ連人にはなじみがないらしくて、いつも素敵なものが汁の中に入っていた。
 味噌で味をつけたスープの時には、中には米が入っていることもあったり、小豆や糠や枝豆のときもあれば、塩抜きしてある「ます」や鮭や、煮だしに使った肉ひと切れのこともあった。
 また、砂糖をミルクに入れずお粥に入れてみたりなど、ロスケの炊事、献立技術は珍妙な思い出を残してくれた。

 看護婦が、患者に掃除などの労働をさせることは違法であった。患者を使用するときは通訳の許可がいるし、また許可をした場合には、通訳より、直接私達に説明があった。掃除のときは、掃除婦と看護婦との共同作業だった。
 そのためにロスケの看護婦と掃除婦が団結していた。彼等は外からは入られないよう、入口のドアをビール樽のような掃除婦が内側から背で固く押していた。このようにしておいて、鉄の寝台を立てさせ、藁布団に水がかからないように持たせたり、棒ずりで床をすらせたり、たまり水を雑巾でふきとらせるなど、患者の日本兵をこき使った。外では看護婦がスクラムを組み、部屋の出入を妨害した。
 ところが、室内の清掃や、階下の炊事場から大鍋を食堂まで運ぶ手伝いをするとパンのひと切れや、お粥の1杯でもありつけることができた。だから、少しでも元気になり力のついてきた者よりどんどん申し出て、これらの軽作業についていた。

 これもあまり度が過ぎ、その作業のあとの特別給与につられて、毎朝毎晩、自分の方から便所の掃除をやりだす者も出た。日本兵の面目を汚しているということで、マライ半島からの歴戦の勇士、室長でもあった可南軍曹の承諾のもとに、同じ部屋の患者にぶん殴られるような、別名『シベリヤ乞食』まで誕生してきた。
 とてもとても大阪出身の在満のロートル、井上一等兵はそんなことでひるむような気配でもなかった。
 彼はもと、第14大隊。第7中隊の指揮班の伝令として、本部から中隊までのひっきりなしの各種通達の伝令をやりこなすぐらいだったから、もともと体力には恵まれていたのではなかろうか。
 だから、退院して作業隊に入るのも早かったようだ。

 私のいた第17号室の患者13名、その中には、菓子屋の職人をしたことのある者が1名、料理屋さん1名、農家の人が3名、会社員4名、染め物屋さん1名と、定職のない者もいた。
 それらの人が、それぞれに各地の名物だの珍らしいことのあれやこれやを話題にして、毎日がなんとなく過ぎた。
 京の着道楽、大阪の食い道楽に始まり、ぼた餅とおはぎについての講議、ぜんざいとおしるこの論議、漬物の講習。
 ……勿論、これは、口ばっかり。
 ……土地の奇習などといったような罪のないことばかり。
 講談家は見てきたような嘘を言う、というようなこともあろうし、誇張もあろう、偽りもあれば思い違いもあろうが、故郷を偲ぶ心は誰も同じ。
 他愛もないような雑談でも交し合い、日時を過ごしたことも忘れられない抑留中のひとこまのように思われてくる。
 真偽のほどは極めていかがわしいものや、また、他愛のないようなことでも記憶にあるものを並べると、


◎卵の白味と黄味の場所を変える方法。これは、酢酸の中に2日~3日ぐらい浸しておき、それを引きあげて、そのままゆでると、白味と黄味の場所が交替している。殻をはいで切れば、美しい飾りつけになる。
◎大匙1杯の酢酸、大匙2杯の重曹(重炭酸ソーダ)、大匙1杯の明ばんを入れてご飯をたくと、1升たかねばならないところが、6合か7合の米で充分である。
◎厚味のある魚の照り焼きをする時には、2~3時間ばかり「たれ」の中に浸しておくとよい。
◎かば焼きにうちわを使うのは、うなぎを焼く間、汁が落ちて炭火にかかると、そのとき上った煙でうなぎの味が悪くなるからである。
◎食堂のご飯は、茶わんに入れて蓋をして、蒸し器の中に入れてあるからいつでも暖かい。
◎醤油に酢酸を加えると、即席のソースができる。
◎ライスカレーをするときには、メリケン粉をバターで炒るとよい。
◎トマトケチャップは、トマトをどろどろになるまで煮て、それをしぼってから煮つめたものである。
◎カレー粉は小瓶を買った方がよい。大瓶は、しまいには気が抜けてしまう。
◎からしは、すってから杯に入れ、平鉢に水を張ったものの中にふせておくとよい。
◎からしは、たかなの種から作る。
◎かまぼこ、かつおぶし、塩辛、豆腐、味噌、醤油、こうじ、しいたけ、納豆、どぶ酒、かんぴょう、粉菓子などの製造のこつ。
◎甘納豆は、小豆が、湯がわいたとき、その中でぐるぐる回って皮が取れたりしないように、鍋の中では金網の箱に入れて蓋をして煮てある。よく煮てから金網のまま引きあげ、蜜や砂糖の沸騰している別な鍋の中に入れ、しばらくしてからあげるとよい。素人さんには、「うずら豆」の方がやりやすい。
◎天プラは粉をあまり溶かしてはいけない。
◎蒸しパンを作るときにはいくら固くてもよい。あまりねらないがよい。
◎蒸し焼きパンを作るときのメリケン粉の固さは、耳たぶの固さぐらい。
◎氷の天プラは作ることができた。ころもをうんと厚くしたらできたとのこと。
天津包子テンシンポーズ(うどん粉の中に、生卵に肉やねぎを刻みこんだのを「まき」のように包み、それを蒸したら、その中の卵がゆだって固まってくる)
◎塩辛は、とにかく塩をたくさん入れさえすればよい。
◎北海道の南瓜、馬鈴薯、熊、鮭、ます、そうらん節。
◎青森県のりんご、にしん、鮭、どぶ酒、へかなべ。(すきやきの一種)おさえ団子。しし漬け(魚類の塩漬の一種。冬期に備えての保存食)
◎秋田県の焼きたんぽ。どどいつ。
◎福島県の馬市、納豆。
◎新潟県の大雪、農産品。
◎静岡県の次郎長漬、鰹、お茶。
◎伊豆半島の椿、牛乳風呂、島女。
◎山梨県のぶどう、水晶。
◎京都の千枚漬、桑酒、八つ橋、お茶、さばずし。
◎関東の南京豆。
◎伊勢の赤福餅、五色豆。
◎愛媛県の鰹、柿、みかん、そうめん、猿。
◎別府の温泉と鯛。
◎広島の「かき」。
◎鹿児島県の桜島大根。
◎鳥取県の「かに」。
◎下関市の「ふぐ」。
◎大阪の「びっくり」、難波おこし。

 ……などと、食べる話題だけでなく、また私の部屋の患者の出身地以外の地方の名物、お国の祭の餅の大きさ、冠婚葬祭の習慣、正月の雑煮の餅の形やらその雑煮の中に入れるものに至るまで、種々雑多のことを話し合った。
 そのため、誰も、口だけなら一流のコックさんなり、有名菓子屋さんの長老格職人に成長していた。

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キンクーマ(祖父のシベリア抑留体験記)
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