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プチ信心のすすめ

 僕は唯物論者かつ無神論者である。
 とはいえ、何かにつけそういうことを主張しているわけではない。冠婚葬祭にも人並みに付き合うし、霊やら占いやら超常現象の話を聞いてもむきになって否定したりせず、むしろ楽しそうなら積極的に乗ったりする。
 ただ、神や霊がいるかいないかと問われれば「いない」と思うし、前世や来世も「ない」と思うし、予言や超能力、呪術のたぐいもぜんぶ演出やトリック、あるいは心理学的に説明のつくものだと思っている(たとえば下記記事参照)。まあそんな感じ。



 これを書いている今現在も基本的にはそうなのだが、しかし最近、運気がいいとか悪いとか、良いオーラとか悪いオーラとか、ふとそういう風にものごとを考えている時がある。
 運気とかオーラなるものが本当にあるのか、と問われればこれまた「ない」と答えるしかない。せいぜい自己成就予言とかプラシーボ効果といった合理的解釈を認める程度である。だがそれはそれ、これはこれだ。
 たとえば邪気がたまる気がする、ということがある。生活のなかで受ける対人ストレス。揉めたり、揶揄されたり、嫌われている気がしたり、また自分自身も思うように振る舞えなかったりして、だんだん心がとっ散らかってゆく感じ。それは僕にとって、まさに悪いもの=邪気が蓄積される感覚なのである。

 かつて『夕闇通り探検隊』という知る人ぞ知る(オ)カルトゲームがあった。
 この作品には霊障システムというものがあり、不吉な場所を通ったり霊に関わっていると霊障ポイントが溜まってゆき、最終的にはバッドエンドとなる。そこでゲーム内の神社仏閣にお参りし、霊障を解除する必要があった。

 

『夕闇通り探検隊』


 これはゲームにかぎった話ではなく、かくいう僕も以前から薄々感じてはいたのだが、神社や寺にお参りするとなんだか気分がさっぱりするんですね。さきほど述べた邪気が祓われるような。
 そういうことをもっと生活に採り入れてはどうか、と考えたのがちょうど大晦日あたりで、さっそく初詣に、名古屋で一番高い山であるところの東谷山の頂上に位置する尾張戸神社(おわりべじんじゃ)に行ってきた。


尾張戸神社。2025年1月1日午前撮影。


 さらに、三日には地元の連れである超かおりんと大須観音に行き、これは三千人ほどの長蛇の列が出来ていてまともに並んでいたら何時間かかるかわかったものじゃないので、外からお参りしてきたのだった。
 それでも大須観音自体のパワーが強いので、だいぶ運気が上がったはずである。繰り返すが唯物論者かつ無神論者なんですけどね。


 *

 そんなことを考えつつ、昨日は『歴史公論』第92号、特集「都市の民俗」を読んでいた。すると巻頭座談会「都市民俗学の可能性」で、宮田登と守屋毅が激しい議論を繰り広げているのが目に止まった。
 その内容は、宮田が「都市民の不安」という前提で都市を語ろうとするのに対し、守屋は「農村に住んでいる人間ははたして安心しているといえるのか」と疑義を呈し、両者なかなか譲らずに都市と田舎のどちらが不安かという応酬が延々と続いたのであった。


守屋 やはり、土から離れると不安だという論理は、一種の都市蔑視感にもとづいていると思うんです。アプリオリに都市というのは不安なものだと決めてしまっていいのかどうか、私は疑問です。

『歴史公論』第92号所収「都市民俗学の可能性」p.27


 宮田が「昭和の初期に、都市民が不安の気持ちで田舎に帰りたがっていたという風潮があった」「高層ビルや地下街などが人々に不安を与えるのは都市ならでは」「江戸-東京には浮世風呂(大衆浴場あるいは風俗)や浮世床(床屋)がたくさんあり、そこで冗談を言い合って不安をまぎらわせていた」等々述べると、守屋も負けじと「(都市と農村の)人口が逆転したのだから、そういう都市のもっている魅力を正当に評価すべきだ」「けっきょく民俗学は農村の現状肯定からさらに進んで、実態以上に農村を美化してしまった面がある」「民俗学でも『遠野物語』のように農村の不安を扱ったものがある」と反論する。

 この議論は読んでいてじつに面白かったのだが、ちょっと話が逸れたので今回のnoteに関連するところまで戻すと、宮田の主張の中心にあるのは農村には祖霊信仰が生きているということであった。


宮田 人間が結束した農村の共同体のばあい、祖霊という守護霊が歴代子孫を保障するという、一種の民俗の文化装置ができあがっていて、そのなかに入っていれば、暗闇も台風も防御できるわけです。
(中略)
ところが都市はそうじゃなくて、祖霊が保障するような形でのまとまりがない。

同書、p.34


 これを読んでああそうか、と思ったわけである。
 というのは、神社仏閣にお参りするのもいいが、その前に先祖に護ってもらうべきではないか? ということに気付かされたからだ。



 妻は子供の頃に、親に「じいちゃんやばあちゃんが守ってくれるから(暗闇でも)怖いことないで」と教えられたという。まさに宮田登の語る祖霊信仰そのものだ。
 そんなわけで、今年は神社仏閣の近くを通ったら参拝もするけれど、ときどき先祖のことを思い出して合掌しようかな、と思ったのだった。それというのも、運気を味方につけていい感じに暮らしたいからである。いや唯物論者で無神論者なんですけどね、本当に。

 *

 くどいようだが転向してはいない。神仏や祖霊が本当に存在すると認めたわけではないのである。
 しかし頭でわかっていても、なんかこのごろ波長が良くないな、悪い気が溜まってるなと感じるのは、これはどうしようもなく感じてしまうので、ならばそれに対抗し、なんとなく気分がサッパリする、お参りだとか守護霊を意識するといったことをカジュアルにやってゆこうと考えたわけですね。あくまで軽く、趣味程度に。それが「プチ信心」というわけです。

 それでは今日はこんなところで(⛩ω⛩)ノ✨

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安田鋲太郎
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