【明日はきっと晴れますように】第10章 明日はきっと晴れますように
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◆ 第10章 明日はきっと晴れますように
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2011年12月15日、わたしは川に流されて命を落とした、はずだった。
生きているとわかったとき、わたしに芽生えたのは疑問だった。
わたしはどうして生きているんだろう。どうして生き長らえてしまったんだろう。
もう一度死にたいと思った。
けれど、踏みとどまった。
わたしはまだ、生きることを投げ出してはいけないのかもしれない。そう思った。
わたしにも、何かできることがあるのかもしれない。
わたしが、柊朔乃しなければならないことが、ひょっとしたらあるのかもしれない。
──生きることを、始めようと思った。
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わたしの家には、一本のギターがあった。
詳しいことは知らないけれど、お母さんが若い頃、趣味で弾いていたらしい。
小さい頃、興味本位でわたしはそれをよく触っていた。当時のわたしには大きすぎたし、持ち上げることもままならなかったそのアコースティックギターは、けれど弦をはじくと、たしかに音が鳴った。
小学校に上がった頃だっただろうか。ある日、お母さんがわたしにギターを買ってくれた。ギターの弾き方を教えてくれた。
数少ない、お母さんとの思い出だった。今となっては遠い記憶。
楽譜を買い与えられたのもこの頃だったと思う。新しいものと古いものが混ざっていた。曲のジャンルもバラバラだった。いくつかはお母さんが昔使っていたもの、いくつかは新しく買ってきたものだったんだろう。
音楽を聴く環境には事欠かなかった。
親は基本的に家にいなかったから、家にあるCDは聴き放題だったし、パソコンも好き勝手に使えた。
そうしていろんな曲を聴いたり映像を見たりするうちに、わたしは多くの歌を覚えて、見よう見まねで口ずさむようになった。
それからほどなくして、一人ぼっちになったわたしは、孤独を埋めるように、音楽を聴いた。寂しさをかき消すように、ギターを弾いた。自分の居場所を探すように、歌を歌った。
そして2011年12月15日、わたしは九死に一生を得た。
なんで生きてるんだろうって考えて、生きることを始めようと思った。
そのとき、わたしが真っ先に思い浮かべたのは、音楽だった。
わたしには歌がある。ギターがある。そしてわたしには、今まで誰にも言えず、誰にも聞いてもらえず、自分の中にしまい込んでいた言葉がいくつもある。
わたしは音楽で、それを伝えようと決めた。
言いたいことを伝える方法は、きっと言葉だけじゃない。
その日から、わたしは自分の言葉で歌詞を書くようになった。その詞に、ギターを使って曲をつけた。
後悔、葛藤、自己嫌悪、捨ててしまったもの、手に入らないもの。そういったものたちを歌にしていこう。歌にすることで、行き場のない想いにも、居場所が生まれてくるはずだ。
何曲かできあがると、ギターを持って外へ出かけ、弾き語りをするようになった。
歌う場所に選んだのは路上だった。
最初は、やっぱり誰も聴いてくれなかった。
まったくの無反応というのは、罵詈雑言を浴びせられるよりもある意味きついものがあるとわたしは思う。好きの反対は嫌いではなく無関心、とはよく言ったものだ。
それでもわたしの音楽が、わたしを支えてくれた。
次こそは伝わってほしい。もっといい歌を作りたい。そう思って曲を作り続け、歌い続けた。
始めのうちは自分が演奏するので精一杯だったけれど、回数を重ねていくと、聴いてくれている人の反応が見えるようになってきた。
そして、一人、また一人と、足を止める人が増えるようになった。
路上だと、目の前にいる人たちの表情が、匂いが、温度が、ダイレクトに伝わってくる。
演奏を終えると、拍手をしてくれた。その拍手はお世辞だったかもしれないけれど、わたしは嬉しかった。
ある雨上がりの日、わたしはポンチョを着たままギターを持って、路上で歌ったことがあった。
目立つのだけれど、不思議と落ち着くことができたし、勇気が出てきた。
そのときに気がついた。
雨に打たれて、自分の存在を実感するために着ていたポンチョ。それはいつからか、一種のお守りみたいな存在になっていたのだ。
それ以来、わたしはポンチョを着て歌うようになった。
それからも聴いてほしくて、街角で、公園で、駅前で、歌い続けた。アマチュア向けの音楽コンテストに参加してみたりもした。
わたしが16歳の誕生日を迎えた頃、レコード会社の関係者から連絡を受けた。
簡単に言うと、歌手としてデビューしてみないか、という話だった。
あとから知ったのだけれど、わたしの路上ライブの映像がネットにあげられていて、ひそかに話題になっていたらしい。それに加えて、コンテストで業界関係者の目に触れたことなどが影響したみたいだった。
初めは夢かと思ったけれど、話が進むうちにどんどん現実味を帯びていった。
デビュー曲のレコーディングとプロモーションにあたって、新しいギターを勧められた。
無機質な、けれど透明感のある空色をしていた。いつか通っていた喫茶店にあったノートを思い起こさせる色だった。
弾いてみると、温かくもしっかりとした存在感のある音が響いてきた。琴じゃないのだけれど、琴線に触れる音だな、と思った。
かくして、2015年8月26日、ポンチョを着て空色のアコギで弾き語りをするというスタイルで、わたしはデビューを果たすことになる。
デビュー日には、地元の駅前でミニライブもやらせてもらえた。
道行く人が、足を止める。
それまでバラバラに伸びていた線が、わたしの前で交わり、点となる。
わたしが奏でる音楽に、腕を振って、体を揺らして、手を叩いて、歌を歌って、答えてくれる。
わたしは生きている。わたしは今ここにいる。
自分の中にあるものを、声という形で、外の世界に放出していく。
〝わたし〟と〝あなた〟、〝自分〟と〝他人〟。そんな輪郭を、境界線を越えていく。
デビューの日、歌を聴きに来てくれた人たちの中に、4年前わたしを助けてくれたあの人がいた。
向こうは気づいていないみたいだったけれど、わたしは飛びあがりたいのを必死で抑えていた。
何か声をかけてみようかと思ったものの言葉が出ず、いつの間にかその人は去ってしまっていた。
自分が嫌いだった。後悔ばかりしてきた。
歌うことくらいしか、好きになれなかった。
けれど、歌うことは好きでいることができた。
歌うことを好きでいてよかった。
わたしにしか作れない曲がある。わたしだから歌える歌がある。
今はそう信じている。
それからわたしは、シングルを2枚、3枚と出していき、さらにはアルバムのリリースの話まで出るようになった。
全国のいろんな場所で歌うことができるようになり、歌を聴きに来てくれる人も増えてきた。
声を褒めてくれた。想いに共感してくれた。また聴きたいと言ってくれた。
この人たちのために歌っていこう。この人たちのために生きていこう。
変われなくても、無理に強く生きようとしなくても、わたしはそれでいいと思う。
ほんの少しだけ、生きてみようかなって思えれば。そのための勇気を引き出せる光に、わたしはなりたい。
わたしにとってポンチョは、ただ雨に打たれるための道具じゃなくなっていた。
けれど雨に打たれていた日々があったから、今のわたしがある。
ポンチョはわたしの一部であり、わたしの存在証明でもある。
いつだったか、あの人が〝交換日記〟に書いていた歌手の名前。
あの頃のわたしが何度調べても、それは見つからなかった。見つかるはずがなかった。
けれどその名前の歌手が存在していたこと、そしてその名前を書いてくれたことを、今は感謝したい。
わたしは言葉を紡ぎ続けた。弦を掻き鳴らし続けた。
過去を受け入れるために。わたしの、あるいはわたしに似た人の、居場所を作るために──。
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