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『ここで終わってなるものか』その①~メンバー紹介リレー第1弾、今村脩人編第1部~
幼少期の記憶と言えば、「苦しかったこと」しか思い浮かばない。
今村脩人。いまむらしゅーと。2001年、大阪府生まれ。
日本寺子屋協会では理事・事務局長・啓発コミュニケーション委員長を務めている。「啓発コミュニケーション」とかいうあまり聞きなじみのない部署の長を務めているが、簡単に言えばソーシャルビジネスにおけるPRのことだ。
つまりそう、SNSでの発信やPRイベントの企画、当然この記事も自分で自分の紹介を書いている。
今日ここでは、僕が教育に命を削るワケをこれまでの人生を振り返りながら書いていくつもりだ。長くなると思うが、一緒に仕事をする方々にはぜひ最後までお付き合い願いたい。
あとそうだ、他のメンバーの紹介は、今村との対談方式でPodcastも制作する予定だが今回はしない。しゃべるのはそんなに好きじゃない。
2007年4月、僕は小学校へ入学した。思えばそこからが本格的な地獄のはじまりだった。
物心つく前から勉強ばかりさせられていた。記憶はないが、アルバムに残っている写真をみれば机に向かっているものかプチ旅行にいったものしかない。5歳ころには、そこらへんの高校受験生くらいには1日中机に向かっていたのだろうと思う。戦隊モノ、ポケモン、遊戯王、まったく通らずにここまできた。今思えば、まだ机に向かってさえすれば怒られなかった入学前の日々は幸せだった。
小学校に入るとそう、定期的にテストがある。忘れもしない。普段はわら半紙なのにテストになると白いプリントが配られる。親から僕に課せられたのは当然100点のみ。100点以外の今村脩人は、存在を否定された。
1問間違えば「なんでこんなミスするの?」
計算ミスをすれば「なんで同じミスを繰り返すの?」
執拗に問いただされた。
勉強中は常に親が横にいて、テストと同じ間違いをすれば否定された。書き間違いをした漢字は、何度も何度も何度も何度も練習させられた。×のついたテストが返ってきたら、絶望とどう今日を乗り越えるかを考え続ける日々だった。
次第に僕は、100点じゃないテストを持って帰れなくなった。
まずはお道具箱のなかに入れっぱなしにした。
すぐにバレた。
家に帰るとすぐに「今日はテストあったの?」と聞く親、9〇点が続いていた僕は何日か連続で「テストはなかった」と答えた。
簡単なクイズだ。そんな急にテストがなくなるはずがない。親が担任に電話をして僕のお道具箱から数枚のテストが見つかった。
担任には「なんでテストお母さんに見せないの?」と言われた。9〇点のテストは常識的には喜んで親に見せるはずだ。さらにたちの悪いことに、担任の前で親は9〇点を取った僕を褒めた。
結局学校では、僕はただプライドが高い奴ということで片づけられた。
こんなことを数回繰り返すうちに、僕のお道具箱は目をつけられるようになった。次の逃げ場を探さなければ。
次に選んだのはトイレだ。
みなさんもトイレにトイレットペーパー以外のものを流した経験はあるだろうが、僕のように初めてが「9〇点の小学校のテスト」な人はそういないんじゃないだろうか?
これでもう完璧だ。トイレに流してさえしまえば、見つかるまい。
安心していたその瞬間だ。
「テストどこに隠したの?いいなさい。」
「いやテストなかったよ。」
「嘘。あたしはお母さんだからわかる。正直に言わないと水泳辞めさせるで。」
それなりに本格的に水泳を習っていた私は、その時間がテストからも親からも逃れられるオアシスのようなひとときだった。楽しいことをいっぱい教えてくれる友だちもできた。
今度はそのかけがえのない時間を脅しに使ってきた。口を割るしかない。
「トイレに流した」
当然また否定された。学校でも僕がトイレに行く際は先生から警戒の目を向けられた。
もう、学校内に隠せる場所はない。学校内に僕の居場所はない。
1日の大半が絶望の時間に変わった。
「ここで終わってなるものか。」
・・・・第2部へ続く・・・・