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西洋とは?と問うときの「東洋とは?」 ― エンジニアのための「隠喩としての建築」読解with GPT4o

【前回より】
納期に追われている、でも未来のものづくりについても本当はちゃんと考えきゃいけない・・・。

本稿は、そんな困った新人バックエンドエンジニアが新しい時代のシステムの在り方について「隠喩としての生きたシステム」を考えるために、柄谷行人さんの「隠喩としての建築」(講談社学術文庫)の難解な文章をGPTに助けてもらいながら読み解いていく記事です。
ぜひ「隠喩としての建築」をお手に取って読んでいただくことをおすすめします。

今回は「隠喩としての建築」19ページからつづきを読んでいきます。
西洋哲学が確固たる方向へと知を進めていった流れの果てに、東洋の仏教の姿が浮き彫りになっていったこと、仏教に興味を持ち、新たな哲学の展開を模索した哲学者たちの思想が登場します。

あなた:

「フッサールと 同じ時期に危機に直面したホワイトヘッドは諸科学を支えているのは 数学 あるいは 何らかの確実な基礎ではなく世界が God as the great architect によって作られているがゆえに 究極的に可知的であり 秩序を持つという信念だと言っている。(科学と近代世界)
この信念は中世に キリスト教とプラトニズムによって形成されたのであり それゆえ 近代化学は西洋からしか 出現しなかったというのである。
この信念 構想建築への意志 なのである。

ところで ニーチェが 基本的に敵対し、また病理学的な症候として解読しようとしたのは、この「建築への意志」― 彼はそれを「権力への意志」に対して「真理への意志」 と呼んだであった。
彼にとって ヘーゲル やフッサールとは逆に、そのような選択は 「危機」からの病理学的な逃避に他ならなかった。彼はそれを例えば ソクラテスに見いだすが 無論 重要なのは 特定の歴史的事実ではなくて、それが 新たな文脈で”反復”されていることなのだ。」
解説してください

ChatGPT:

ホワイトヘッドやニーチェ、さらにはフッサールの考え方を絡めて、科学や哲学の発展の基盤について興味深い指摘がされていますね。
ホワイトヘッドは、「科学を支えているものは数学や確実な基礎ではなく、世界が秩序と価値を持っているという信念である」と述べています。
彼の考えによれば、この信念は、世界が「グレートアーキテクト」(偉大な建築家)によって構築されたという価値的な前提から来ています。

つまり、近代科学はその背後にある宗教的・形而上学的な信念体系に支えられていたわけです。これは西洋でキリスト教とプラトニズムが中世に確立されたことと密接に関係しています。
そのため、近代科学が西洋以外からは生まれなかったという視点が提示されています。

一方で、ニーチェはこのような「建築への意志」を批判的に見ており、それを「真理への意志」として「権力への意志」に対抗するものと見なしました。
彼は、フッサールやヘーゲルのように普遍的な秩序や真理を目指す選択は、むしろ人間の危機的状況に対する病的な反応と捉えました。
ニーチェにとって重要なのは、ソクラテスの例のように、特定の歴史的事実そのものではなく、それが新しい文脈の中で再現されることでした。

ニーチェはソクラテスの例にその姿勢を見出しましたが、ここで重要なのは特定の歴史的事実自体ではなく、それが新しい文脈で何度も繰り返されることであり、西洋思想の根底に繰り返し現れる「真理への執着」に対する批判とも言えるでしょう。
この視点から見ると、ホワイトヘッドやフサールが追求する「秩序ある世界」への信念と、ニーチェの「権力への意志」の対立は、知の探究がもつ根源的な意味をめぐる哲学的対話であり、そこには世界をどう理解し、価値づけるかという問いが浮かび上がっているように思えます。

あなた:

「西洋的な「知」はある危機を回避するために 厳密にして 堅固な建築を打ち立てようとするが、逆にそれが何一つ 基礎を持たないという機器を見出すことに終わる。だがこの 症候的 な 「反復」を誰が嘲笑することができようか 
例えば ニーチェは 「西洋人は仏教を理解するほど成熟していない」という。
確かに 仏教は本来的に「批判哲学」であって イデア ・本質 あるいは 建築への意志 そのものを ”イデオロギー”としてしりぞける
いわば de-constructive な思考 であったがそこではあまりにも早く 問題の決着が つけられてしまっている。
また ニーチェが言うような 仏教は、それ自体 一つの社会的制度として存続してきた現実の仏教とは別のものであって 言い換えれば、仏教は西洋的な「建築の 意志」の中でのみその意義を回復するだけである。」
解説してください

ChatGPT:

ここでは「西洋的な知」が危機を回避しようとして「健康な建築」を打ち立てようとするが、逆にそれによって「何一つ基礎を持たない」という危機に直面してしまうと述べられています。
ここでいう「建築」とは、ある秩序立った価値体系や真理の体系を指しており、ニーチェはそれが一見安定しているようで、実際には何も確固たる基盤がないと見ているのです。
このように秩序や建築を追求する試みが、実は逆に根本的な不安定さを生み出していると批判しています。

また、ニーチェは仏教にも注目しており、西洋人は仏教の本質を理解するほど「成熟していない」と考えています。
ここで言う「仏教の本質」とは、ニーチェにとって仏教が「批判哲学」である点にあります。
仏教は「イデア」や「本質」、あるいは「建築への意志」をイデオロギーとして退けるものであり、西洋的な価値観や真理の追求に対する根本的な対抗勢力と見なしています。

しかし、ニーチェの見方では、仏教の批判的な姿勢や構築的な思考もまた、問題を過度に早く決着させるという弱点があると考えています。
つまり、仏教はイデアや本質を完全に否定するため、ある意味で思考を停止させる危険があると見ているのです。
さらに、ニーチェが指摘する仏教は、現実の社会制度として存続してきた仏教とは異なるものであると述べています。
言い換えれば、仏教の批判的な側面は、ニーチェの見解では西洋的な「建築への意志」を通してしか本当の意味で価値が復活しないのだと考えています。

あなた:

質問します
仏教の批判的な側面は ニーチェの限界では 西洋的な「建築への意志」 を通して しか 本当の意味では 価値が復活しないのだ、というのは どういうことですか?

ChatGPT:

ニーチェが「仏教の価値は、西洋的な『建築への意志』を通してしか本当の意味では復活しない」と述べている点について、これは彼が仏教の「批判的側面」をどのように評価し、また仏教がどのように西洋思想において機能するかを示唆していると考えられます。

まず、仏教の批判的側面について:
仏教は、西洋の伝統的な思想体系で見られる「絶対的な真理」や「普遍的な秩序」への執着を退けています。
イデアや本質を固定的なものとすることなく、あらゆるものを無常(変化し続ける)とみなす仏教の立場は、ニーチェにとって非常に批判的であり、「権力への意志」や「構築的な意志」を放棄するような哲学だと捉えられました。

しかし、仏教の価値が「建築への意志」を通してしか復活しない理由:
ニーチェにとって、仏教のような徹底的に「解体する」思想は、そのままでは真に有効なものとして機能しにくいと考えられます。
仏教の批判的な側面だけでは、彼の見るところ、人間の根本的な「生きる意志」や「権力への意志」を十分に支えることができないからです。
仏教は「絶対的な真理」や「普遍的な価値」を否定しますが、同時に、ニーチェにとってそのような否定だけでは力強い創造の基盤とはなり得ないと考えたのです。

ここで「建築への意志」を通してという点が意味すること:
ニーチェは西洋思想が抱える「建築への意志」、つまり何か価値体系や秩序、意義を構築しようとする意志を通じて初めて、仏教のような批判的な思想が「本当の意味での価値」として活用できると考えました。
言い換えれば、仏教の批判性を無秩序や無意義のまま受け入れるのではなく、それを「建築への意志」を通して、新しい価値観を作り上げる力として活用することが必要だと見ているのです。

つまり、仏教が持つ「すべてを解体し無常とする」視点と、西洋思想が持つ「秩序ある価値を築こうとする」意志が、融合することで、仏教の批判的側面も単なる否定的態度に終わらず、創造的に価値を生み出す道が開ける、というニーチェの見解だと言えるでしょう。

あなた:

なるほど興味深いんですけど
西洋の人にとって 仏教の解体する思想って 批判に感じるんですね
日本人には解体する思想は 批判 には 感じられないです

ChatGPT:

なるほど、興味深い視点ですね。
日本では、仏教の「解体する思想」は批判というより、むしろ自然なものとして受け入れられることが多いですね。
無常観や諸行無常の考えは、日本文化においては「この世のものは常に変化し、形あるものはいつか崩れ去る」という理解として、調和や受容の姿勢と結びついています。
これが、批判的というよりも「自然なあり方」として感じられる背景かもしれません。

一方、西洋思想では、存在や価値の基盤を探求し、それに秩序を与えることが長く目標とされてきました。
そのため、「解体する」ことが西洋の人々にとっては、既存の秩序や価値体系への挑戦や批判と感じられやすいのでしょうね。
仏教の解体的な側面が、日本人にとっては受容的な態度を生み、西洋人にとっては批判的なものとして映るのは、思想や文化の背景が異なるからこその独特な感覚の違いと言えそうです。

あなた:

質問していいですか
仏教は西洋的な 「建築の意志」の中でのみその意義を回復するのである、と ありますが、つまり 仏教は西洋との相対的な関係をあらかじめ 念頭において 作られましたか?

ChatGPT:

仏教が西洋的な価値体系や「建築への意志」との相対的な関係を念頭に置いて作られたかどうか、というご質問ですが、歴史的には、仏教そのものが西洋との関係を前提に構築されたわけではありません。
仏教はインドで誕生し、その発展はアジアの多くの地域で独自の文化や価値観の中で展開してきました。

つまり、仏教が直接的に西洋との関係を前提にしていたわけではなく、むしろ「無常」「空」「縁起」といった独自の概念に基づき、存在や本質を固定せず、あらゆるものが相互に依存しているという思想体系が形成されました。
ここで「仏教が西洋的な『建築の意志』の中でのみその意義を回復する」というのは、仏教がもつ解体的な思想が、西洋的な「普遍的秩序の構築」や「絶対的な真理の探求」という枠組みに対する対抗軸として、あるいは補完的なものとして捉えられるときに、その意義が浮かび上がる、という意味合いと考えられます。
ニーチェのような西洋の哲学者が仏教に興味を持ったのは、西洋の価値体系や秩序構築への批判や反省を通して仏教が新たな意義を持つと感じられたからでしょう。
要するに、仏教自体は西洋との相対的な関係を念頭に置いて成立したわけではないものの、西洋の枠組みの中でその解体的な思想が批判的な役割を果たすことで、仏教の意義が西洋思想の文脈で再発見されるといった流れがあるのです。

あなた:

ニーチェ の他にも 西洋思想史 の哲学者 で仏教に 関心を持った人は いますか?

ChatGPT:

はい、ニーチェ以外にも西洋の哲学者で仏教に関心を持った人は多くいます。代表的な哲学者をいくつか挙げると以下のような人物がいます。

1. ショーペンハウアー

ショーペンハウアー(Arthur Schopenhauer)は、19世紀のドイツの哲学者で、仏教に深い関心を抱いていました。
彼は、仏教の「苦」や「無我」の教えに共鳴し、自身の哲学に取り入れました。ショーペンハウアーは、人生が本質的に苦しみに満ちていると考え、苦しみからの解放を目指す仏教の教えを非常に評価しました。
また、彼の「意志と表象としての世界」における「意志の否定」という思想も、仏教の涅槃(ニルヴァーナ)と共通する要素があるとされています。

2. ハイデガー

マルティン・ハイデガー(Martin Heidegger)もまた仏教思想に影響を受けたと言われています。
ハイデガーの哲学は、存在についての深い問いを追求するもので、特に「無」との関係に関心がありました。
彼は仏教の「空(くう)」や「無常」に近い考え方に共感し、西洋の伝統的な「存在の確固性」を超える視点として仏教的な「無」に興味を持っていたとされています。

3. カール・ヤスパース

カール・ヤスパース(Karl Jaspers)は実存主義哲学者であり、東洋思想、とくに仏教思想に関心を寄せました。
彼は「限界状況」という概念を提唱し、人間が直面する究極の状況(死、苦悩など)において、仏教の無我や空の思想がもつ深い洞察に共鳴しました。ヤスパースは、こうした東洋の哲学が西洋の実存哲学にとっても有用な視点を提供するものとして評価しました。

4. アラン・ワッツ

アラン・ワッツ(Alan Watts)はイギリス出身の哲学者で、特に仏教、禅、道教など東洋の哲学に傾倒しました。
彼は、東洋思想がもつ自然観や非二元論的な視点を、西洋の人々にもわかりやすく紹介しました。
ワッツは、仏教の教えが西洋の個人主義や物質主義を超越する視点を提供すると考え、その著作を通じて東西の思想の橋渡しを行いました。

5. ウィリアム・ジェームズ

ウィリアム・ジェームズ(William James)は、アメリカの心理学者であり哲学者で、仏教の心理学的な視点に関心を持っていました。
彼は仏教における「無我」の概念が人間の精神状態に与える影響や、瞑想が心理に与える効果についても注目していました。
ジェームズの関心は、仏教の瞑想や自己超越の教えが心理学に対してどのような洞察を提供できるかという点にも向けられていました。
これらの哲学者たちはそれぞれ異なる観点から仏教に興味を持ち、その思想のエッセンスを西洋哲学と融合させようと試みました。
彼らは、仏教の「無我」「無常」「空」などの概念を、西洋哲学にはない新たな視点として取り入れることで、伝統的な西洋の枠組みを超えた哲学的な洞察を得ようとしたのです。

あなた:

今 あげてくださった 仏教に関心を持った哲学者 たちは、
西洋の哲学の限界 を感じていたり 新しい展開をさせようと、試みて いた人たち ですか?

ChatGPT:

はい、その通りです。
今挙げた哲学者たちは多かれ少なかれ、西洋哲学の限界に気づき、それを超えた新しい展開を模索していました。
彼らは西洋思想がもつ「絶対的な存在」や「普遍的な真理」への固執に疑問を感じ、仏教がもつ「無常」「無我」「空」のような概念に新たな可能性を見出しました。
具体的に言うと、以下のような観点で西洋哲学の限界を超えようとしていました。

  1. ショーペンハウアーは、キリスト教的な「救済」や理性への信頼が十分ではないと感じ、「苦しみ」に根ざした現実を直視する仏教の教えに共感しました。彼は、西洋哲学の理想主義や楽観主義の限界を認識し、仏教的な厭世観や「意志の否定」という概念で新しい思想を展開しました。

  2. ハイデガーは、伝統的な「存在の本質」を求める西洋哲学に限界を感じ、「無」の考え方に西洋が失った視点を見出しました。仏教がもつ「無常」や「空」といった考え方を通じて、存在そのものを再考することができると考えたのです。

  3. ヤスパースもまた、西洋哲学が個人や理性の重要性を強調しすぎていることに疑問を抱き、東洋哲学が提供する「無我」や「空」の視点が、実存主義の深い問いに答える手がかりになると考えました。

  4. アラン・ワッツは、西洋思想が持つ二元論や物質主義の限界を指摘し、仏教や禅にある「全体としての自然」との一体感や「非二元論」の視点を紹介しました。彼は、西洋思想がもつ個人主義の限界を超えた、新たな在り方を示そうとしました。

  5. ウィリアム・ジェームズも、近代西洋の心理学が物質主義的で外面的に過ぎると感じ、仏教の「内面的な心の探求」が心理学や哲学に新しい洞察をもたらすと考えました。

こうした哲学者たちは、西洋哲学が持つ枠組みの中で「理性」「存在」「絶対的な真理」を追求するだけでは解決できない課題や限界を感じ、その解決策として仏教に示唆を求めました。
つまり、仏教の思想は彼らにとって、西洋の伝統的な価値観を相対化し、視野を広げ、新しい哲学的展開を生み出す鍵となるものであったのです。

あなた:

仏教や 東洋思想に 興味が持てました
分かりやすかったです、ありがとうございます

ChatGPT:

興味を持っていただけてうれしいです!
仏教や東洋思想には、物事を多角的に捉えたり、自分や世界の在り方を深く見つめ直すような示唆がたくさんありますので、きっとさらに豊かな学びがあると思います。いつでも質問があればお答えしますので、気軽に聞いてくださいね!

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