アメリカの古い小説『二十日鼠と人間』やっぱり、名作!
古い古い、アメリカの小説。『と人間』(スタインベック著、新潮社)。
刊行は1937年。戦前ですよ。著者スタインベックはアメリカを代表する作家で、ノーベル文学賞受賞者です。ピューリッツァー賞に輝いた『怒りの葡萄』は世界的ベストセラーにして、ロングセラー、1400万冊売れたとか。そのうち一冊は高校時代の私が購入。
スタインベックは工場や農場で働く労働者でした。彼の作品にはいつも労働者が登場します。いつか安定した職業についてささやかでも落ち着いた暮らしがしたいと望む労働者。
だからスタインベックを読むと1900年代の庶民の生活を知ることができます。
読書は時代を超えられる。国境も越えられる。翻訳家のみなさんのおかげで言語の壁も越えられる。
1900年頃の、アメリカの、労働者階級の暮らしが目の前に。
やっぱり、読書っていうのはすばらしいモノですね。
でもひとつだけ、モヤモヤすることが。
外国文学を読んで、いつも思うのは、「貨幣価値がわからない」ということ。
ドルも、ペニーも、フランも、元も、何かもう一つぴんとこない。そんなことを言えば、昔の文やら銭やらもよくわからん。まあ、読み進めていくうちにどうでもよくなってくるんですが。
さて、『二十日鼠と人間』。例によって、ストーリーに関するお話はしませんが、ひとつだけ。
レニー・スモールという大男が主人公として登場します。(スモール?)彼は大きな体に似合わずやさしく穏やかな性格で、幼児程度の知能しか持っていません。もうひとりの主人公ジョージ・ミルトンと農場を渡り歩いています。レニーのペットは二十日鼠。レニーは二十日鼠の庇護者。ジョージはレニーの庇護者。
何かの世話をする。誰かの面倒を見る。面倒くさいし、振り捨ててしまいたいこともあります。でも、二十日鼠がいなくなったとき、レニーはほっとするのか?レニーがいなくなったとき、ジョージは幸せになれるのか?誰もが誰かの二十日鼠であり、レニーであり、ジョージである。そう考えると、ラストのジョージの気持ちは・・・、もう・・・。(読んでね)
『アルジャーノンに花束を』(ダニエル・キース著、早川書房、ハヤカワ文庫)を読んだとき、この『二十日鼠と人間』を思い出しました。『アルジャーノンに花束を』は二度テレビドラマ化されています。(主演はユースケ・サンタマリアと山下智久。共通項が・・・ない)私にしては珍しくどちらも見ていません。(そうそうテレビばっかり見てはいないのだよ。)
舞台にもなっている。こちらも見ていない。
この、コロナ禍で行動が制限されますが、ひとつだけ、「おお、これはうれしい」ということが。
舞台やコンサートの配信です。
フウちゃん(さて、誰でしょう?)は嵐のコンサートを、私は劇団四季の『ロボット・イン・ザ・ガーデン』と『ザ・ブリッジ』を見ました。
田舎暮らしだと、そうそうナマを見に行けないので、たいへんうれしかった。
もちろん「世の中が落ち着いたら、見に行くぞ」という決意もあらたにできた。
四季の関係者の方、落ち着いたら見に行くので、もうひとつふたつ、ライブ配信してくれません?
誰もが、いまよりも少し幸せになることを願い、そのために決断して努力して、すべてが好転し始めると・・・。どちらの作品も、もの言わぬ二十日鼠が物語の結末を暗示しています。さてそれぞれに登場する二匹の二十日鼠と我々人間はどう違うんだ?などということをついつい考えてしまいます。できれば『二十日鼠と人間』、『アルジャーノンに花束を』併せてお読みください。
ダニエル・キースがヒューゴー賞(優れたSF作品に与えられる)を受賞したとき、プレゼンターのアイザック・アシモフ(SF界の巨匠。「ロボット」という語を作ったお方)が「どうしたらこんな作品が書けるの?」と聞いたところ、こう答えたそうです。「わたしがどうやってこの作品を書いたか?あなたにおわかりでしたら、ぜひ教えてください。もう一度やってみたいから」
よく言われることですが、名作は書くんじゃなくて、降りてくるんですね。
でもダニエル・キースはその後、『5番目のサリー』(五重人格)や『ビリー・ミリガン』(二十四重人格)シリーズでもヒットを飛ばしています。全世界に多重人格モノブームを巻き起こしました。何度も何度も降りてくる人ですなあ。(キースの作品じゃないけど、しまいには百重人格モノまで出ました。いくらなんでも・・・)
私にも何か降りてこないかなあ。
文才もいいなあ。
博打の才能もいいなあ。
ソロモン王のように、動物としゃべれる才もよろしい。
お馬さんから直接「今日の調子」を聞き出せたらなあ。