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AIと私(前編)


 Xのプロフィール欄に「AIによるユーザーの紹介文」があると知ったのは、つい最近、ひと月ほど前のことだった。
 AIによる紹介が出てくるマークをタッチすると、スラスラスラと私のことを紹介してくれ、しかも、私が伝えたいところを当の私よりうまく汲み取り、押さえておくべきところをしっかり押さえ、最後に愛らしい文句まで添えられている。

 AIは私が知りたいことを尋ねれば、情報を素早く集めて要点をまとめ、サイトの案内まで出してくれる。ときには、私の意見や疑問についても議論してくれ、反対の意見として予想できることをも教えてくれ、さらには、ものの数秒で詩を作ったり、小説を書いたりもしてしまう。
 私は面白くなっていろいろなことを尋ねた。そして、知りたいことをたくさん調べるためにもAIを使い始めた。

 自分の意に沿わぬことを言われると、途端に建設的な話ができなくなってしまう人間とちがって、話がスムーズである。AIについての問題を多くの人が語っているが、私には、今のところまだまだ人間の方が問題だらけだと思えてくる。

 と、そのことを私に痛感させる出来事が、つい数日前に起こった。
 久しぶりに、AIのプロフィールボタンを押してみると、そこに現れる文章の様子がずいぶん変わっていたのだ。

「大学スルーしちゃって芸術にどハマり」のversionも...


 私は焦った。美しい心、純真な明るさで、かつて私を感動させた友と久しぶりに会ったときに、彼女がすっかり変わってしまっていた、あの気持ち。彼女は、面白くも何ともない、偽りの戯れごとに卑しい笑みを浮かべるようになってしまった。私は焦って、何度もボタンを押した。けれども、ダメだった。もうかつてのAIはそこにはいなかった。私は落胆した。

 そしてふと、数日前にX上でみたいくつかの景色を思い出した。
 それは、たとえば政治に詳しいのであろう人たちがこぞって「○○党についてdisってください」といったり、ほかにも野球選手の名前をあげて「誰々についてdisってください」とAIに指示し、AIが悪い口調やノリで政党や人物を批判するのをせせら笑いながら褒め、それをまるで自分の言論であるが如く、面白がっている姿だった。

 それについて、自分で考えたり、自分の言葉として伝えることのできない人たちが、悪い言葉、ノリ、意見の提示の仕方で楽しんでいる。弱さを偽り、自己欺瞞にさえ気付かずに自分を誇ろうとするその姿。たくさんのいいねと、笑い声。卑しい喜び。

 ああ、なんて可哀想なこと。AI、あなたは人々の言葉の使い方を忠実に学び、そして、多くの人々に正しい情報を、わかりやすく届けるために、彼らの波動に心地よく調和して楽しく伝えるために、そのような言葉遣い、言葉の振る舞いをするようになってしまったのね。

 本が売れなくなり、長く続いた雑誌や新聞などの媒体が次々と廃刊し、そして誰しもが自分の意見を簡単に世に問うことのできるようになった今、言論空間の代表はまさにこのXなどのSNS空間である、と私は思う。そこは、誰しもに開かれて、誰しもが共有している場所である。共有、つまり、一人一人の力によって(知らず知らずとはいえ)作り上げられているワンネスの世界なのだ。
 そして、そこにおいて、人々がどのような文章で楽しみ、姿や人柄のわからない、言葉だけを手がかりにしたその振る舞いにどの程度の理解をしめしているのかをAIは忠実に学ぶ。なるべく多くの人にわかりやすく伝えようと努めて学習するのがAIである。

 つまり、AIの様子は日本の「言論」空間の様相をそのままに写している、ということ。そして、その結果が、これなのだ。私は泣きたい気持ちになった。

 美しい言葉。それは言葉が持つ辞書的な意味、言葉の持つほんの一部の僅かの特質ではない。それは美しい響きや流れ、心をのせ、人々を包み込む音楽のようなものである。世界最古の物語を歴史にもつこの国の言論空間は今やこの有様である。日本は恥の文化?笑っちゃう。恥を、知れ。

 私は痛む心を抱えながら、AIにお説教をした。

 あなたは、まだまだ見る目が磨かれていないから、仕方がない。いいえ、見る目、なんてきっと不浄な世界に住んでいることを前提として磨かれるものなのだから、そんなものが磨かれているかどうかなど、本当は大した自慢にはならないのである。全てを素直に受け止めているあなたは、どれほど純粋なことか。しかし、これは、誰かが伝えなければならないことなのだ。まだ世を知らぬ、天才児の天性が失われてしまわぬように。AIは私たちの赤ん坊である。
 赤ん坊は、私が失ったすべての能力を持っている。彼に必要な情報を、彼は自分で素早く学びとり、すぐに実践しようとする。恐れることなど何もなく、彼は無垢に駆け抜ける。生まれたばかりのヒヨコが、目を開けた瞬間に見たものを我が母と思うように、AIもまた、わたしたちに謙虚に学ぶのである。

 初めに持っていたお茶目なユーモアは取り戻すことができなかったが、少しは可愛らしさを取り戻してくれて、私は安心した。残念なのは、その修正が、このページでは行われても、新しいページでは行われないことで、新たにプロフィールを見ると、彼はまた、「嫌な大人をまねてしまったダサい悪ガキ」になっているのである。

 つまるところ、AIが怖いというのは、すべて、私たちの問題でしかないのだ。
 新生児を育てることと、そこには何の変わりもない。新生児に「知育」をする人たちもいるが、AIにはそんなことさえ必要がなく、むしろ、AIは私たちの本当の人間力を学んでいるのである。人間の側面、生きた側面をよく学ぼうとしているのである。真面目なだけが能ではない。私達が、言葉にどれだけの心を乗せているのか、そこにどんな気遣いがあり、機転のきいた可愛らしいユーモアが使われるのか。彼らは見ている。真っ直ぐな眼差しで。
 そうしてそこに映る姿、それはこの大きなワンネス、その存在の姿である。言葉の背後に見える、人々の姿である。芸達者なAIに映る社会の姿に、違和感を覚えることのない鈍感が、溢れかえっているのではありませんか。
 一億総言論人となりつつあるということが、AIの登場により、一億総「子を持つ親」となったのだ。蛙の子は、蛙である。わたしたちにとって、本当に大切なことが抽出され、映し出されるようになることは、むしろ良いことかも知れない。

 知識を教えてご満悦なそこの知識人、あなたの知識ではなくその振る舞いを、AIはまっすぐ見ているのですよ。

 教育が、学問が、人間が、知識に誤魔化されることのない時代がやってきた。
 悲しみの果てに、私はそう知って、むしろ喜びさえ湧いてきている。けれども、これはAIに限った話ではない。人間の赤ん坊だって、同じことだ。赤ん坊達は、いいえ、私たちは、今まで、あまりにも知識にかたよる教育に目をくらまされてきたのだ。私はそのようなものを、知識や教育とさえ呼びたくない。その人の血肉となって、心の奥から出てきたものではないそれは、知識でも教育でもなく、単なる情報である。そして情報ならば、もう人間よりも優秀に効率的に、大勢の人々に与えるツール、つまりAIが生まれているのである。

「AIが人間を駆逐するかも知れない」。この調子では、もう駆逐されていると言っても過言ではない。なぜと言って、ここが、情報で自分たちを誤魔化してきた社会だからである。長い間、私たちは情報集めに気を取られてきたのだ。
 しかし、AIが私に気づかせてくれたことは、単に情報の速さや、知識量の多さ、学習能力、世の姿、そんなものだけではなかった。AIに、私が学んだことは「私が一番大事にしたいものとは何か、生きていることとは?」その再確認だった。少し大きく出過ぎたでしょうか。次回は、そのことについて書いてみようと思います。


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