はじまりのブラウニー
「またブラウニーを焼いてもらうことはできますか?
6つだけでいいんですけど。」
11月上旬、大好きなパティシエールに頼みにいった。若い頃、フランスで修行をしたという彼女が作るスイーツはどれも絶品だ。本当は季節ごとにラインアップを変える生ケーキを食べてもらいたかったけれど事務所は遠方。そもそも打ち合わせの合間に食べるには大掛かりになってしまう。
今回のおみやげは焼き菓子にしよう、となれば彼女のチョコブラウニー以外は考えられなかった。クルミとレーズンがたっぷり入ったずっしりとした生地にカシスとピスタチオのソースが格子状にかかったもの。ダークブラウンにピンクとグリーン、見た目もお洒落で、口にする前から期待度はぐんとアップ。袋から取り出すと、大抵の人は「わぁ」とか「うーん」とか思わず声を上げてしまうほどに素敵なスイーツ。
あれからそろそろ3年になる。やっとだ。やっとこの時がやってきた。緊急事態宣言直後から会えなくなった仲間たちと今度こそ本当に会えるんだ。
リモートワークになってから、いろいろなことがあった。長年働き、結婚退社後も席を借りていた会社は、請け負っていた流通広告の仕事を整理するため別会社と組むことになった。それに伴い移転。時間と費用を考えれば、30分以上遠くなった新事務所に席を置くメリットはない。社員ならともかく、母となり、フリーランスとなった身で、やりがいや心地よい時間欲しさに通えるほど私のお財布に余裕はなく、世の中が落ち着いても今後は家での作業が主体になるのだろうとぼんやり考えていた。
後輩が1人、自宅に近い職場を求めて退社した。同僚の1人は会社の変革に賛同できず独立を決めた。残った仲間たちは皆やさしかったけれど、私のスキルを見抜いて適切な案件を回してくれていた同僚が会社を離れたことで、請け負う内容はすっかり変わってしまった。メインとなるのは他の人でもできる作業ばかり。そんな状況を知り、代わりに怒ってくれる人もいたけれど私は納得していた。仲間が苦心して仕事をつないでくれているのを知っていたし、ブランクがある中、しかも遠方に住む身で働かせてもらうというのはきっとそういうことなのだ。消せないさみしさは心の奥にしまいこんで、オペレーション作業でも、雑務でも、リモートでできることはなんでもやった。
でも、月日というのは本当にすごいのだ。気持ちを沈めながら積み重ねてきた時間は、いつの間にか私を別の場所まで運んでくれた。今の私は、独立した同僚がディレクションをする案件の主要メンバーになっている。打ち合わせに同行し、デザインのアイディアを出し、キャッチコピーを書く。企画書まがいのものも作らせてもらえるようになった。そして、転職した後輩ともまた繋がり、新しい仕事をもらえることも先日決まった。20年も前に味わっていたモノづくりの熱い気持ちをもう一度取り戻す日が来るなんて数ヶ月前には思いもよらなかったこと。どんな時も、どんな形でも、前に進むことをあきらめずにいてよかったと思う。
感染症が広がり収入が激減したことは、将来について熟考する思いがけない機会となった。ひとしきり途方に暮れたあと、まずは目の前の仕事をこなし、空いた時間で今しかできないことをやろうと要約筆記の勉強を始めた。社会福祉の担い手となる要約筆記者には資格が必要で、約2年の学びを経て間もなく統一試験を迎える。難関だそうだ。言い訳をするのが恥ずかしくて普段は黙っているけれど、正直、勉強が足りていないと思う。仕事の繁盛期と重なり、寝る時間を削っても他の受講生には追いつけないのだ。他人と比べても意味がないのはわかっているけれど、気付けばいつも焦っている。でも、結果がどうであれ、身につけた知識は無駄にならないと信じて今はやるしかない。泣いても笑っても3ヶ月後には結果が出ているのだから。
進む先に明るい光が見えなかったとき、下を向いた私の目に映ったのは自分の足元だった。走れるパンプスというネーミングを信じ、減速もせずに進み続けた過去の自分。手にした充実感と一緒に残ったのはヒールの傷と、かかとについた靴擦れの跡だった。何を手にして何を手放すかという価値観は人それぞれ。でも不自然なものは続かないことになっているようだ。私の場合は壊れてよかったのだと思う。
家にいるようになり、忙しいからと手を抜いていた家事と向き合った。どうやったって完璧にはできないのだからと、少しだけがんばることを目標にしたら料理の楽しさを思い出した。取り込んだ洗濯物はできるだけ早いうちにクローゼットに片付け、シャツには丁寧にアイロンをかけた。息子と映画を観て、朝読書用の本を選び、回転寿司に行った。天気のいい朝は家の周りを走って、自分のための朝食を用意した。お風呂上がりのスキンケアに時間を割き、寝る前にいくつかのストレッチを試した。小さなことだけれど、今までやらなかったことを習慣にしたら私の中の何かが明らかに変わった。
目の前の仕事と、日々の暮らしでできることを少し。そうやって過ごしていたら大きなチャンスが訪れて、突然 景色が大きく動いた。そういえば占いで読んだことがある。遠くの運をつかみたいならまずは手の届くところから。本当だ、意図せずやっていたけれど、こういうことなのかもしれない。
◇
特別に焼いてもらったブラウニーは大好評だった。やっぱりね、これは間違いないんだから。みんなの笑顔を見ながら心でつぶやく。会えた時はこれって、もうずっと前から決めていたんだよ。
3年ほど前、みんなでスイーツを食べたあの日とは場所も状況も違う。1人1人が抱えている仕事も、私自身の仕事環境も大きく変わった。それでも、笑顔と心の距離は昔のまま。多少ボリューミーになった男性もいたけれど、それは内緒にしておいた。
やみくもに蒔いた種から芽が出たのは自分で水を与え続けたからかもしれない。でも、離れた場所から光を当ててくれる人たちがいなければ上に向かって伸びることはできなかった。
もらった光はこれから少しずつ跳ね返していこう。一緒に胸を張って進むために。大丈夫、疲れたらとっておきのスイーツをみんなで食べればいい。テーブルを囲んで、マスクを外して、「わぁ」とか「うーん」とか言いながら。
変わっていく景色を、今度はみんなで一緒に見よう。
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