東海林直人のゴロテマ日本史◇古代4(冠位十二階~律令格式)*
※ 語呂合わせでテーマ史を記憶するので「ゴロテマ」です。
日本史試験では、暗記が大きなウェイトを占めています。事件・事項・人物・年代を覚えるのが第一歩。一問一答だけで、高校受験には足りるでしょう。しかし大学受験ともなれば、その知識の質を突いてきます。語句を流れの中において論述できるくらいになっていなければなりません。ここまできて漸く合格点をとれる準備が整ったことになります。
でもいざ本番になると、「江戸時代の~〇〇年から〇〇年の△△について述べよ」などで徳川将軍の順番に混乱が起きるでしょう。また「昭和〇〇年から〇〇年の……を述べよ」では歴代首相の就任順の記憶があやしくなることがあります。この些細なことが受験生の頭を悩ませます。「どういう順番だったかなあ!」 長文の問題文を読みすすめながら、頭が混乱してきます。まるで霧の中を歩いているようになることがあります。制限時間はどんどん経過します。これを曖昧にしたまま不安のなかで進めると論旨まで危うくなってきます。こういうパニックに陥りたくないですね。
じゃあもっと勉強しとくんだった? しかし「英語」も「数学」も時間がかかるのです。社会科にこれ以上の時間をかけられない、というジレンマに陥るでしょう。こういうとき確実な知識、たとえば「ゴロ」句で覚えていれば、事項の異同、順番などは迷わずoutputできます。
ゴロテマをやれば、問われたテーマに沿った語句・事項が自然に浮かんできます。そして、自分なりの考えで味付けをすればなんとか書けます。合格点にはギリギリとどくでしょう。日頃からゴロ句をたて糸に歴史を見る練習をするのです。自分なりの考えや感想を練習しておくとよいと思います。
※ S←A←B←C←Dは重要順ランクです※ 「note」は下線を引けないので太字を代用します(以下同じ)
◇古代§31.冠位十二階の覚え方 ◇B
[ゴロ]12階に/独自レーシング基地/は無理さ
(冠位十二階)(徳・仁・礼・信・義・智)(603)
[句意](このビルの)12階に独自のレーシング基地を設けるのは無理さ、という句。
[point]
1.冠位十二階は徳・仁・礼・信・義・智の6種×各2階で、603年制定。
[解説]
1.冠位十二階(603年)は、徳・仁・礼・信・義・智の6種をそれぞれ大・小に分けて12の位階としたもので、世襲される姓とは異なり、個人に対しあたえる。この授与で、氏族単位の王権組織を官僚組織による中央行政機構に再編成しようとしたもの。
2.憲法十七条(604年)とともに豪族たちに国家の官僚としての自覚を求めるものでもあった。こうして王権のもとに中央行政機構・地方組織の編成が進められた。
3.『日本書紀』によれば、推古天皇の代の603年に制定された冠位である。聖徳太子の事績を伝える『上宮聖徳法王帝説』にも同様の記述があるが、時の大臣蘇我馬子の関与も十分に考えられる。
〈2017大学入試センター・日本史B:「
問2.下線部a7世紀後半に関連して、7世紀後半の諸政策について述べた文として正しいものを、次の①~④のうちから一つ選べ。
① 飛鳥の地に、西大寺や大官大寺などの大寺院が建立された。
② 最初の全国的な戸籍である庚午年籍がつくられた。
③ 冠位十二階が制定され、豪族が新たな身分秩序のもとに再編された。
④ 大王の系譜などを採録する『旧辞』の編さんが開始された。」
_________________
(答:②670年 ※①西大寺(764年創建)、④5~6世紀頃編纂)〉
〈2017関西学院大・済国際総合2/4:「
問3 次の文章a・bをよく読み、各々の正誤を判定し〇×で示せ(問題形式変更…東海林)。
a.一般に3世紀中頃から7世紀を古墳時代と呼んでいる。出現期の古墳としては箸墓古墳、中期古墳としては大仙陵古墳が著名である。
b.推古朝では、蘇我馬子や厩戸王らの指揮のもと、冠位十二階、憲法十七条、八色の姓など、官僚制や身分秩序形成に関する新しい政策が次々と打ち出された。
_________________
(答a〇・b× ※八色の姓は天武天皇が684年に制定)〉
〈2016立命館大・全学部2/4:「
問b 下線部②聖徳太子が礼義を制定したことに関連して、『懐風藻』序には、聖徳太子が「爵を設けて官を分かち、はじめて礼義を制す」とある。聖徳太子の時代に制定された、この制度を何というか。」
_________________
(答:冠位十二階の制)〉
〈2013立命館大・文法済営などA方式2/1:「
下線部①冠位十二階の制に関連して、次の史料はこの制度に関する『日本書紀』の記事である。
始めて冠位を行う。大[ ア ]・小[ ア ]・大[ イ ]・小[ イ ]大[ ウ ]・小[ ウ ]大[ エ ]・小[ エ ]・大義・小義・大智・小智、并(あわ)せて寄せて十二階。軌並びに当色の絁(きぬ)をもって縫えり。……」
問a 空欄[ ウ ]にあてはまる、もっとも適当な語句を下から一つ選べ。
ア.徳 イ.礼 ウ.仁 エ.信
_________________
(答:イ)〉
〈2010大学入試センター・日本史B:「
問2 下線部a四天王寺は、蘇我馬子とともに戦った、ある皇子(王)が創建したと伝えられている。この人物が国政にかかわっていた時期の出来事について述べた文として正しいものを、次の1~4のうちから一つ選べ。
1.世襲による氏姓制度とは異なり、個人の功績や才能を評価する冠位の制度が定められた。
2.中国南朝に使者を派遣し、倭と朝鮮半島南部での軍事指揮権を示す称号を求めた。
3.倭国では大きな争乱が起こり、しばらく収まらなかったが、諸国が共同して女性の王をたて、約30国からなる連合体をつくった。
4.稗田阿礼によみならわせていた神話や伝承、歴史などを、太安万侶が筆録し、書物として完成させた。」
_________________
(答:1〇厩戸皇子の記述 ※2→×478年など倭の五王の記述、3×239年など邪馬台国の記述、4×712年古事記の完成、5×712年古事記の完成)〉
◇古代§32.遣隋使初の留学生派遣 ◇B
[ゴロ]妹の子は/みんな斑点(ぶち)か/黒マルの/群れや
(小野妹子)(僧旻(みん))(南淵請安(みなみぶちのしようあん))(高向玄理(たかむこのくろまろ))(608)
[句意]妹の(猫の)子たちは皆斑点(ぶち)か黒丸模様の群れなんだ、という猫の身体の模様のことを言っている句。「玄理」の読みは(クロマロ)と(ゲンリ)があるが、前者を使用しました。
[point]
1.第三回遣隋使(608)で大使小野妹子に随行した留学生は、南淵請安・高向玄理・僧旻など8名だった。
[解説]
1.第一回遣隋使は600年。『隋書』(「東夷傳俀國傳」)には高祖文帝の問いに倭の遣使が答えたとの記載がある。ただし『日本書紀』にこの記載がない。
2.607年には遣隋使として小野妹子が中国にわたり(第二回遣隋使)、答礼使裴世清を伴い帰国。翌608年に留学生を伴い中国へわたる(第三回遣隋使)。
3.僧旻(?~653、日本名は日文)は608年の遣隋使で隋にわたった学問僧。帰国後、私塾を開き、中臣(藤原)鎌足も受講したという。改新政治では高向玄理とともに国博士に就き最高顧問となった。
4.南淵請安(生没年不詳)は608年の遣隋使で隋にわたった学問僧。640年帰国後、中大兄皇子・中臣鎌足に中国の新知識を教え、大化の改新に影響を与えた。留学仲間の高向玄理・僧旻が政府に参加したのに請安が参加していないのは、その直前に死んだという説と、かれが蘇我氏配下の渡来人の出だったためという説とがある。
5.高向玄理(?~654)は、本姓高向漢人で渡来人の子孫。608年、唐に渡り、645年帰国後、大化改新では国博士に就き最高顧問となった。654年遣唐使として再び唐都長安にはいり、同地で亡くなった。
〈2018青山学院大・全(理工を除く)2/7:「
遣隋使には後にc大化改新で重要な役割を果たす留学生も随行したが、こうした国際関係の進展の中で、倭は積極的に中国や朝鮮半島の政治制度を取り入れ、国家体制の強化を図っていった。
問5.下線部cに関連して、この時の留学生として誤っているものを、次の①~④の中から一つ選べ。
①旻(僧旻) ②南淵請安 ③高向玄理 ④中臣鎌足」
_________________
(答:④)〉
〈2018立教大・文2/11:「
問11.これ(国家間の使節の往還)に伴って中国に渡った人物として正しくないのはどれか。次のa~dから1つ選べ。
a.空海 b.玄昉 c.奝然 d.旻」
___________________
(答:問11c※奝然は983年(一説に982年)宋(そう)の商船に乗り入宋(にっそう)し、987年(一説に986年)に帰国)
〈2017関西大・全学部2/7:「
(C)『隋書』倭国伝によると、隋の(5){(ア)煬帝(イ)太宗(ウ)文帝}の時代に、日本は最初の遣隋使を派遣し、使者は倭王が「阿輩雞彌(おおきみ)」と称していることを紹介している。その後、小野妹子が隋に派遣されて、「日出づる処の天子」ではじまる国書を差し出したが、皇帝はこれを見て悦ばなかったという。遣隋使には(6){(ア)高向玄理(イ)犬上御田鍬(ウ)南淵請安}らが同行し、中国の進んだ政治制度などを学んで帰国した。(6)はのちの改新政府において国博士として活躍している。」
_________________
(答:(5)ウ、(6)ア)〉
〈2017早稲田大・人間:「
古代における対外関係というと、何を思い浮かべるだろうか。まず遣唐使が想起されるという人も多いだろう。
a隋と正式な交流をもっていた倭国は、唐が隋にかわって中国を統一した後、遣唐使を派遣するようになった。
問1 下線部aに関連する記述として、誤っているものはどれか、1つ選べ。
ア 煬帝は、小野妹子のもたらした国書の内容を無礼とした。
イ 隋から倭国に答礼使として裴世清が派遣された。
ウ 遣隋使とともに渡海した旻や南淵請安は、大化改新後に国博士となった。
エ 最初の遣唐使である犬上御田鍬は、遣隋使としても渡海した経験があった。
オ 『隋書』倭国伝や『日本書紀』に遣隋使についての記事がみえる。」
_________________
(答:ウ× ※南淵請安は国博士になっていない)〉
〈2017関西学院大・済国際総合2/4:「
A.大業三年、其の王多利思比孤、使を遺して朝貢す。a使者曰く、「聞くならく、海西の菩薩天子、重ねて[ b ]を興すと。故、遺して朝拝せしめ、兼ねて沙門数十人、来りて[ b ]を学ぶ」と。其の国書に曰く、「日出づる処の[ c ]、書を日没する処の[ d ]に致す。志無きや、云々」と。帝、之を覧て悦ばず、鴻臚卿に謂ひて曰く、「蛮夷の書、無礼なる有らば、復た以て聞する勿れ」と。……
【設問】
問1 下線部aに該当する人名を下記より選びなさい。
ア.小野妹子 イ.高向玄理
ウ.犬上御田鍬 エ.旻
問2 空欄bに該当する語句を下記より選びなさい。
ア.五経 イ.仏法 ウ.律令 エ.暦
問3 空欄c・dに該当する語句の組み合わせとして、正しいものを下記より選びなさい。
ア.c:太子、d:帝
イ.c:天子、d:帝
ウ.c:太子、d:天子
エ.c:天子、d:天子
問4 史料Aの時期の日本に関する説明として、正しいものを下記より選びなさい。なお、すべて誤っている場合は「エ」をマークしなさい。
ア.高松塚古墳が築造された。
イ.筑紫の国造が大規模な反乱をおこした。
ウ.四天王寺や法隆寺が建立された。
問5 史料Aの記事が掲載されている歴史書を、下記より選びなさい。
ア.『日本書紀』 イ.『続日本紀』
ウ.『古事記』 エ.『隋書』」
___________________
(答:問1ア、問2イ、問3エ、問4ウ、問5エ)〉
〈2016法大・文法営:「
問11 下線部j遣隋使に関して、以下のア~エの記述のうち正しいものを一つ選べ。
ア 600年に初めての遣隋使が派遣されたが、隋の文帝は倭国に関心を示さず、城内に招き入れなかった。
イ 607年に小野妹子が派遣された際には、隋に臣属しない形式の国書を携えたため、隋の場帝の怒りを招いた。
ウ 608年に飛鳥を訪れた隋の答礼使の官位が非常に低いことが発覚したため、その後隋に使者は送られなかった。
エ 小野妹子とともに留学生や学問僧が隋に渡ったが、高向玄理は隋の滅亡に伴う戦乱によって現地で亡くなった。」
_________________
(答:問11イ〇 ※ア×遣隋使を謁見している、ウ×派遣は継続、エ×654年に遣唐使として入唐後彼の地で病死した)〉
〈2014立教大・現代心理コミュ福祉経営:「
問1.これ(大化改新と呼ばれる政治刷新が進められた)に関する記述として正しくないのはどれか。次のa~dから1つ選べ。
a.左大臣と右大臣の職が廃止となった
b.蘇我倉山田石川麻呂が自殺に追い込まれた
c.高向玄理と旻が国博士となった
d.難波長柄豊碕宮に遷都した」
_________________
(答:a× ※左右大臣とも存続)〉
〈2014立教大・法経済異文化コミュ:「
問2.下線部②推古天皇に関連する記述として正しくないのはどれか。次のa~dからlつ選べ。
a.甥の厩戸皇子が編纂したとされる書に『天皇記』と『国記』がある
b.小野妹子が遣隋使として派遣された
c.十二階からなる冠位の制度がもうけられた
d.中国の文物を学ばせるため、高向玄理、南淵請安、玄昉を留学させた」
_________________
(答:問2d×※玄昉→旻)〉
〈2012立教大・経済法異文化コミュ:「
問5.このとき推古天皇の治世は、30年以上にも及び、その間、厩戸王や蘇我馬子らが協力し、冠位十二階の制、憲法十七条の制定といった施策が行われ、また、中国との外交も再開された。中国に渡り、帰国後日本に中国の制度や思想・文化を伝えた人物でないのは誰か。次のa~dから1つ選べ。
a.高向玄理 b.曇徴 c.南淵請安
d.旻」
_________________
(答:b)〉
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