
うそつき先生
子どもたちの喧騒に呑まれてしまいそうになる。
教師は孤独だ。
考えてもみてほしい。
何のまとまりもない数十人の子どもたちを、
ひとりでまとめあげていかなければならないのだ。
経験も技術もまだ持ち合わせていない僕のような若造が、
先生というだけでそれを任されている。
3年目に入った今年も
少しは慣れてきたけれど、
やっぱり遠足や学年での集まりなどになると、
子どもたちは気が散って、いつも騒がしくなる。
そうなると僕にできることは、
大声で怒鳴りつけることぐらいになる。
別に僕だけの話じゃない。
先輩の学年主任も、
隣のクラスの先生もみんな似たようなものだ。
それでうまくいけばいいが、
子どもたちはダラダラしたままだし、
いつまでたっても成長せずイライラさせられる。
「すごいね、今年の6年生は」
放課後、職員室でほお杖をついていた僕に
補助教員の佐藤先生が話しかけてきた。
退職後、再採用されたベテランの講師で、
高学年のクラスの算数を担当している。
佐藤先生からすれば新人の僕は、
何かと気にかけたくなる存在らしい。
今年の6年生といえば、
2年前僕が担任した子たちである。
初めて受け持ったクラスということで張り切っていたが、
そんな気持ちは数ヶ月もしないうちに吹き飛ばされた。
若い男性教員の情熱で当たって砕いてほしい、という
校長先生たちの狙いがあったのかどうかは知らないが、
砕かれたのは僕の夢と希望の方だった。
彼らのあまりの傍若無人、縦横無尽な荒れっぷりに、
たちまちのうちに僕は飲み込まれ、
そして吐き出された。
毎日のように怒鳴りまくっていたことすら、
覚えていたくないくらいだ。
そんな彼らがすごい?
そういえばその翌年も耳にした彼らの毎日のニュースを、
今年はまだ耳にしていなかった。
「あの子たち、また何かしたんですか?」
僕がそう尋ねると、佐藤先生は微笑みながら首を振り、
「ああ、違うよ。そうじゃなくて、
6年生の変わりようがすごい。
昨年までとは別人のようだよ」
「そんなに?
どう変わったんですか?」
「あのね、あの子たち、
まだ1度も大きなトラブルを起こしていない」
僕はあっけにとられる。
いや、聞いている皆さんも、
何だそれと、ぽかんとしていると思うが、
それがどれだけすごいことかは、
ここにいればわかる。
だってこの数年、
毎日のようにトラブルを起こしていたのだから。
「それって、すごいじゃないですか」
佐藤先生はうなずき、感心したようにつぶやく。
「そう、すごい。
しかも、
3つのクラス全部がそうなっていることがすごい。
学年主任のタカさんは確かに実力はあるけれど、
あとの2人は今年来たばかりで、しかもまだ若い。
どこか1クラスくらい、
うまくいかなくてもおかしくないのに、
どのクラスも落ち着いていて、
授業もちゃんとできているんだ」
授業がちゃんとできている?
学年崩壊と言われたあの子たちが?
「すごいですね・・・どんなふうにしているんだろ」
あの子たちに比べれば、
普通の子たちといっていい今のクラスの子たちでも、
僕は大変だというのに。
そこに大量のノートを抱えて来たのは、
噂のひとり、小松田先生だった。
佐藤先生が話しかける。
「すごい量だね。宿題?」
小松田先生は笑いながら言う。
「ええ。日記帳です。
いやー、さすがに39人は多いですね」
ちらりと見てみると、そのノートは作文帳で、
それに日記を書かせているようだった。
佐藤先生が
「今さ、6年生の話をしていたんだよ。
今年はすごいって。」
小松田先生が
「すごいですか?」
と微笑む。
「うん、昨年までと全然違うって。
1週間もしないうちに変わったって、
みんなびっくりしてるんだ。
さすがだよ、小松田先生」
小松田先生は嬉しそうにしながら
「ありがとうございます。」
と言う。
佐藤先生が
「どんなふうにしているのかって、
みんな話しているよ」
僕もそう思った。
いったい、この人たち6年生の先生は、
どんな方法で彼らと接しているのだろう。
佐藤先生が僕の方を振り向き、
「なあ、教えてもらいたいよなあ、今野先生」
僕も思わずうなずき、同意する。
小松田先生は
「教えるって言ってもなあ・・・」
と、鼻の頭をかいている。
そして僕に向かって、
「ああ、そうだ。
明日の6時間目、学年集会なんだよ。
その時間、空いてる?」
と尋ねてきた。
「え?ああ、空いてますけど。」
「それなら、会議室にいるはずだから、
こっそり見学してみたら?」
僕は戸惑った。
「あの・・・そこで何をやるんですか」
「普通の集会だよ。」
「なんか特別なことでも?」
「ううん。いつも通り。」
「いつも通り・・・」
「見たらわかるかもよ」
おいおい、クイズかよ、
教えてくれないのかい。
しかし小松田先生はにこにこしながら、
「やっぱ聞くより、見るだよ」
と言い、そのまま椅子に腰を下ろして赤ペンを手に取った。
翌日の放課後、
僕は教室を出た後、
ふと、ああそうだ、会議室だったっけ、と思い出し、
何となく足を向ける。
会議室にたどり着き、
僕は後ろのドアから子どもたちに気づかれないように
そっと覗く。
見つかったら騒ぎになり、先生方に迷惑をかけてしまう。
だがそんな心配は杞憂だった。
子どもたちはみんな前を向いて集中して話を聞いている。
そんなバカな。
大勢の子たちが落ち着きなく
キョロキョロするような子たちだったのに。
たった2年でここまで成長するものなのか。
いや、昨年までのことを考えれば、たった1ケ月だ。
僕はその中で、特に一人の男の子に目が行く。
キレるショウヤだ。
彼はすぐキレることで有名で、
いつも顔つきが暗く、
しかもキレるといっても暴れ出すというのではなく、
突然ハサミやカッターを持ち出して、
無表情に相手に切りかかろうとするという、
大人の僕でも得体が知れず怖い子供だった。
ショウヤはどうしているかな?
そう思って僕は見回す。
そのとき説明が一つ終わったのか、
少し子どもたちにざわめきが起きた。
そこに小松田先生が出てきた。
子どもたちも飽きてきたのだろう、
さっきと違って少しおしゃべりする子も続いた。
僕はちらりと小松田先生を見た。
にこにこしながら、じっと子どもたちを見ている。
黙って気づかせる方法かな?
と思ったとき、小松田先生は、やおら大きな声で
「さすがショウヤくん!」
と言ったのだ。
あのショウヤ?
「ちゃんと黙って話を聞こうと、僕を見ている。
えらいねえ!」
小松田先生はそう言うと、
あっという間に他の子たちも静まる。
小松田先生がその他にも別の子の名前を呼んで、
「○○さんは姿勢がいいね!」
とも言って、気づけば他の子たちも背筋を伸ばしている。
そしてそのまま小松田先生は話をし始めたのだった。
僕はショウヤを見つめる。
彼の表情が柔らかいことに驚く。
あの暗く光っていた目つきはそこにはなく、
褒められて照れくさそうにしている姿は、
幼く感じられるほど子どもっぽかった。
いったい、何が彼を変えたんだ?
放課後、僕はいそいそと6年3組に向かった。
「失礼します」
そう言うと小松田先生は待っていたような顔をして、
僕を迎え入れてくれた。
「どうだった?」
そう聞かれ、僕は返事に困る。
困ったので、ショウヤの話を持ち出す。
「あの・・今日はありがとうございました。
ショウヤくん、僕が受け持っていた子なんですけど、
ちょっとびっくりしました。」
「びっくり?」
「いや、あの、あの子、前は暗い子だったんです。
怖いくらいキレやすかったし・・・
でもさっき見たら、とても優しそうになってて」
「ああ、そうだね。
彼も頑張っているんだ。いい子だね」
「あの・・・どんなふうに彼と関わっているんですか?」
小松田先生は、僕をじっと見て、尋ねてきた。
「見てみてどうだった?」
僕は顔をしかめながら答える。
「いや・・・よくわかんなかったです。
あれですか。子どもたちを褒めるってやつですか」
小松田先生はニッコリして言いだした。
「うん、そうだね。
さすが今野さん、よく気がついたね」
僕はホッとすると同時に、
でもそれくらいであんなに子どもたちが変わり、
まとまるだろうかと疑問に思う。
それを見透かしたかのように、
小松田先生が言った。
「でも、あれ、嘘なんだよ」
嘘?嘘って何が?
「後ろから見ていたから、わからなかっただろうけど。
本当はショウヤくんは、最初から真面目に僕の方を
黙って見ていたわけじゃないんだ」
「そうなんですか?」
「うん。
彼もちょっとそわそわしていたよ。」
「じゃなんで?」
「僕が前に立ったとき、
一瞬、彼の目と合ったんだ。
それをつかまえて、僕が褒めたんだよ。
゛僕のことを見ているねっ゛て」
「じゃあ、嘘なんですか」
「そうだよ」
「そんな嘘で、うまくいくもんなんですか?」
小松田先生は鼻の頭を掻きながら、話し始めた。
「どうなんだろうねえ。
ただ、僕は思うんだよ。
人って、誰かに認められたいんじゃないかって。
君はここにいていいんだよって
言ってもらいたいんじゃないかなって。
心の中には、
良いとこもあれば悪いとこもあるんだけれど、
僕はその中の゛良く思われたい゛っていう気持ちに
賭けるんだ。
そのために僕は嘘をつく。
その子はその嘘にすがる。
そしてその嘘を生きているうちに、
嘘が本当になるときがくる。
それに賭けているというわけさ」
「そうなんですか・・・」
「うん。
もっとも丸っきりデタラメな嘘は言わないよ。
さっきも言ったとおり、わずかな事実はある。
だからショウヤも、目が合っているので、
あれ?そうなのかな?と錯覚してるんじゃないのかな。
おまけにみんなの前で褒められたら嬉しいだろうし」
「そうかもしれませんね」
「ああいう子は、みんなの前で叱られることはあっても、
褒められることはないだろうからね。
だからああいう子ほど積極的にみんなの前で褒めるのさ」
「だからあんなに雰囲気が明るくなったんですね・・・」
「それだけ、
認められることに飢えていたんじゃないのかな」
それは彼だけではなく、周りの子たちも同じかもしれない。
あの子たちは、いっつも大人に叱られてばかりで、
そんな子たちばかりだから悪い見本しかいなくて、
ますます悪くなっていくという負の連鎖だった。
だから、こうしてひとりが褒められると、
なるほど、ああすれば褒められるのかと真似をしだし、
それで全員が良い方に変わろうとしているのかもしれない。
「そういうわけ。
だいたい誰かが怒鳴られると、
無関係の子まで傷つくことになるからね。
怒鳴る先生たちは無神経すぎるよ。
叱るときは、みんなのいないところで。
ほめるときは、みんなの前で。
これが基本さ」