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『極悪女王』あるいはプロレス的自己を生きるということ

 まず先に言っておくと、『極悪女王』は紛れもない傑作である。

 Netflixの日本作品は『全裸監督』『浅草キッド』『サンクチュアリ -聖域-』と、映画のクオリティに負けず劣らずの作品を世に送り出しているが、この『極悪女王』もそれらに比肩されるものとしてラインアップされるだろう。

 私個人が考える映像芸術の役割とは、映像メディアでの記録を通して、<今ここ>で生起しつつある世界の諸相をそのまま切り取るか、あるいは、かつて生起していた<今ここ>の記憶を想起させるごとく再現することで、見るものを何らかの形で触発することにある、と考えるのだが、前者はドキュメンタリー作品などが該当し、後者は映画作品などがそれにあたるだろう。

 その映像での表現を通じて、<今ここ>が持つ出来事の一回性(反復の不可能性)というものを、永遠なるものとして刻むこと、普遍的なものへ昇華させること。歴史の流れの中での「忘却」を忌避し、その一回性の出来事の「記憶」を、われわれ見る者の目の前に蘇らせることこそが、映像芸術の本来の姿と考える。

 ドキュメンタリー作品はそのような役割を意図したものとして自覚的に作られると思うが、映画の場合はなかなかそうはいかない。映画は商業作品でもあるから、単純に芸術としての役割を担うというわけではなく、むしろそのエンターテインメントと芸術の狭間でどう表現していくかということも問われるジャンルだと思っている。

 しかし、ごくまれに、エンターテインメントとしても優れていながら、出来事の一回性を痛烈に刻み込み、かつて紛れもなく現実としてあった<今ここ>の記憶を、スクリーンを通して、今まさに目の前で生起しているかのごとく再現してくれる作品というものがある。

『極悪女王』は、まさにそのような作品ではないかとさえ思えるものである。エンターテインメント性に長けているのはもちろんのこと、すでに多くのレビューでも見られるように、時代性やそこに関わっていた実在の人物の「再現性」が圧倒的なのだ。

 これはたんに役者が衣装や言葉遣いなどを変えたり、あるいは昭和的な雰囲気の描写や小道具などの演出により、その時代を模写するというばかりでなく、役者本人が文字通り命を削って、体を張って「プロレスラー」になることによって実現させている再現性であり、役者本人の肉体を通して、あの時代の<今ここ>が、まさに同じような熱気と狂気を持ったまま、画面の中に立ち現れているという事実こそに、この作品の凄みと衝撃がある。

 役者は、たんに演じるのではなく、その時代に実在した人物の人生をそのまま「生きている」。そして彼女・彼らの現実の演技を通して、実在したレスラーもまた、再び自分たちの人生を、今度は客観的に見ることになるであろう。

 大げさにいえば、『極悪女王』という作品には、長与千種を演じた唐田えりかがいるのではなく、ライオネス飛鳥を演じた剛力彩芽がいるのではなく、そしてダンプ松本を演じたゆりやんレトリィバァがいるのではなく、あの時代の<今ここ>にいた人物、長与千種とライオネス飛鳥とダンプ松本が「再び」生きているのである。

 あの時代の<今ここ>にいた長与千種とライオネス飛鳥とダンプ松本を、2024年の現在を生きる長与千種とライオネス飛鳥とダンプ松本が、客観的に自分たちの生と肉体を見るという、ものすごい構図ができあがっているのである。そのような構図を可能にさせたのが、この作品を手掛けている監督、現場の方々、役者陣の、ある種狂気にも近い熱量に他ならない。

 彼・彼女らもまた、この作品を通してプロレスラーという違う人生を生きることになるわけだから、常人離れした作品になっているのもうなずける話である。

 ただし、『極悪女王』が再現する<今ここ>という時間と空間は、「女子プロレス」という、世間的にはどちらかというとマイナーなジャンルのものであるゆえに、普遍性をどこまで獲得できるだろうかということは今すぐの判断は難しい。

 しかし、そのような「女子プロレス」というジャンルが、ある一時代を築いていたといえるくらいのムーブメントを起こしていたことは、まぎれもなくこの日本の経済社会の中にあったわけであり、われわれは『極悪女王』を見ることを通じて、1980年代という時代が何であったかを垣間見ることもできるのである。

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 物語は、バブル真っ只中の1980年代が舞台である。一大ブームを巻き起こしていた「女子プロレス」でアイドル的人気を誇っていたクラッシュギャルズと、そのクラッシュギャルズとの抗争で女子プロレス史上もっとも有名なヒールを演じたダンプ松本、そのダンプ松本の生い立ちから全盛期までを描いたものである。

 クラッシュギャルズの長与千種とライオネス飛鳥、悪役のダンプ松本はいずれも実在する人物であり、かつて全日本女子プロレスの一時代を築いたトップレスラーである。長与千種を唐田えりかが演じ、ライオネス飛鳥は剛力彩芽、そしてダンプ松本はゆりやんレトリィバァがそれぞれ演じている。

 この役者たちのすさまじさ、当時の再現性、ドラマのあらすじ、物語の感想については、すでにネット上で溢れていることであろうから、私は少し違った角度でこの『極悪女王』の感想を述べたいと思うが、上記に述べたようなことが、この作品への思いのほとんどである。

 付け加えるならば、ゆりやんレトリィバァ演じるダンプ松本というヒールとしての偶像、アイドル的存在がいかにして、この世に出現したのか、ということへの関心である。

 松本香というどこにでもいそうな少女が、女子プレスの追っかけをやっていて、ビューティ・ペアという空前の女子プロレスブームを生み出した存在への憧れから、プロレスラーを目指し、実際にプロレスラーになったあともなかなか芽が出ず、自身の生き残りのためにはどうすればよいかという葛藤の中で、松本香は「ダンプ松本」になる、「ダンプ松本」として生きる、という苦渋の選択と決断を行う。

 その覚悟が、われわれの想像を絶するものであったということが、この作品を通じて、そしてこの作品からの派生でダンプ松本自身の生い立ちを他の情報源で知ることにより、痛感し、心が揺さぶられるのである。

 プロレス界というのは独特の世界で、作品を見ればわかるように、「全日本女子プロレス」という組織の中においては、レスラーはみな同じ道場で練習に励み、同じ釜の飯を食べる。新人の時は同じ屋根の下、宿舎に寝泊まりする。いわば、学校の部活動を一緒に行っているチームメイトが、「興行」という観客のいるリングのうえでは、相対し、時に憎しみあい、戦うのである。

 とうぜん、同じ空間・時間を過ごしている仲間同士、友人同士が、敵味方に分かれて戦うのだが、レスラーはリングの上では、もう一つの「プロレス的自己」を演じる必要がある。そのプロレス的自己は、観客に示すキャラクター、そのレスラーの特性になっていくわけだが、リングを降りたら仲良しこよしというのは、もちろんあるだろう。

 しかし、客が見ているのはリングの上で表出される世界だけなので、とうぜんそのような舞台裏を見てしまったら、没入していた世界観が裏切られることになり、しらけてしまう。次第にどうせリング上の戦いも、暗黙の了解の中でやっているだけなんだろうと思われてしまうわけである。

 そこでプロレスというものは、リング上での戦いにリアルさを演出するために、同じ道場生においても、実際に起きた人間関係のいざこざ、嫉妬や憎しみの感情から発生する、ぎすぎすした対立関係を、そのままリング上のマッチメイクにすることで、リング上の戦いの緊張感、ひりひり感を、意図的に作りだすのだ。

 そのようなマッチメイクも含めて、会社が仕掛けるプロデュース業ということなのだが、全日本女子プロレスはそのようなマッチメイクの手腕に、ものすごく長けていたようだ(ブル中野のYoutubeより)。

 そして、ダンプ松本という人間は、その緊張感、対立関係を小手先のもの、表面的なものにすることを徹底して嫌い、リング上でも私生活でも「ダンプ松本」というヒールとしての偶像を演じることを貫き通したからこそ、今のような地位を築き上げたのだといえる。

「世界一の悪役になると決めてからはブレることがなかった。女性として見られることを捨て去り、相手選手はもちろん日本中を敵視するようにしていた。24時間365日、ダンプであり続けようとした」(元全日本女子プロレス関係者)

日本女子プロレス界“最高の悪役” ダンプ松本が再注目される理由、貫いた“極悪ぶり”』より

 
 その覚悟と徹底ぶりのすさまじさたるや、想像を絶している。考えてみよう。自分という本来の自己があって、その自己というものは、他の人間とはなんらかけ離れていない普通の性格、普通の人間観を持っているものとして、その自己を対外的にはひた隠しにし、世間から悪人、非道、外道と本気で思われるために、私生活もそのような「悪」をあえて演じるということの苦悩がいかなるものか。

 ダンプ松本は実際に罵詈雑言まみれの手紙をもらったり、中には手紙の中に剃刀が入っていたり、実家が標的となり心無い言葉で落書きをされたり、嫌がらせをされたり・・

 それでも、松本香というその人は、自らのプロレス道、その使命感のもと、プロレス的自己の「ダンプ松本」であることを、リングを降りるまで貫徹したのである。

 メンタルがどうのという次元ではない。分裂した自己を、自覚的に、意図的に、そのもう一人の自分を従える形で生きるのである。こういってよければ「怪物」である。

 私たちは、この『極悪女王』を通して、かつて日本列島を沸かせた怪物の生きた証、<今ここ>の記憶を目撃するわけである。 

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 プロレスというジャンルは、その物語を自己に内包する形で、自らが物語の構造を生み出すことを最大の要素として組み込み、大衆化させることに成功した、きわめて稀有なジャンルである。

 その中でも、会社が意図的に物語を生み出し、本人を「偶像」に仕立てるということもある。ダンプ松本も、きかっけは、クラッシュギャルズの対抗馬としての悪役が必要という、会社の目論見、計算であったかもしれない。

 しかし、ダンプ松本はその会社の思惑をも呑み込み、ダンプ松本という悪の偶像そのものと化したのである。それによって、比類なき女子プロレスラー像を作り上げた稀有な存在なのである。

 そして、そのダンプ松本の生涯を再び生きてみせたゆりやんレトリィバァをはじめ、『極悪女王』を彩る役者陣は、この作品が出現させている、かつての<今ここ>に立ち会うことになった比類なき役者として、この先も語り継がれることであろう。


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