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宗教や信仰についての雑記 #68

◯誰もが皆孤独

人は皆誰もが孤独な存在、そんなふうに思うことがときどきあります。
人は他の人の歓びや痛みを知り得ません。
他人の仕草や表情や、声の調子や言葉などから推測することしかできません。
決して他人の歓びや痛みを直接感じ取ることは誰にもできないのです。
ですから人は皆誰もが根本的に孤独なのです。

そして何かの理念に共鳴して集まった人々でも、その理念についての受け止め方が、各々少しずつ異なることも珍しくありません。
他人の想いは直接感取することができないからです。
言わばそれらの人々は理念の最大公約数の領域でつながっているのであって、その領域が小さくなれば分裂して別の分派を生み出します。

信仰においてもそのことは言えると思います。むしろ、信じる人の数だけ多様な神仏のイメージがあるような気がします。端的に言えばそのとき、自分にとっての神仏と他人にとっての神仏とは、たとえ同じ名を持っていても異なるものとなっています。
人は皆誰もが孤独です。その孤独故に神仏からの恩寵は、その人一人だけのためのものとなり得るのです。

そんな孤独な人間にとって祈りとは何でしょう。
祈りとは神仏に何かを請い願うことでしょうか。
神仏から見れば無にも等しいほどちっぽけな存在である人間の発した祈りが、無限なるもの、永遠なるものに、自らの力だけで届くとは私には思えません。
祈りとは、神仏から届けられる恩寵を受け取るために、自らを開くこと、あるいは開いたことを表すものであるような気がします。
言い方を変えればそれは、自分が本当に願うべきこと、己の真の願いに気づくことなのかもしれません。

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