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宗教や信仰についての雑記 #241

◯教えの多義性

先日、聖書の「心の貧しい人は幸いです」という言葉がふと気になり、この「心の貧しい人」にはどのような解釈があるか調べてみました。

すると、自分の罪深さを深く認識した悔い改めの心、純粋で素直な子供のような心、神を求める霊的な渇望の心、自己中心的な欲望やエゴを捨て去った謙虚な心、何の美点も誇れるものもない拠り所を持たぬ心などなど、様々な解釈がありました。

人が聖書に求めるものは様々なので、その中の言葉一つとっても、やはりその解釈は多様になるのでしょう。
その解釈には、こうであってほしい、こんなふうに言ってもらいたい、といった願望(あるいは切望)が込められているような気もします。

読む人によって様々な解釈が可能であること、そのような多義性があることが、聖書が2000年に渡って読み継がれてきた要因のひとつなのかもしれません。

仏教も「八万四千の法門」と言われるほど、その教えが分化しているそうです。その背景には応病与薬とか対機説法とかいった考え方があるようです。

それらのような、解釈の多様性や教えの分化といったことには、人々の置かれた状況は様々であり、その苦しみもまた様々であることへの深い洞察があるのだと思います。
言い換えれば、それらは多様である人々の苦しみに寄り添う教え、ということなのでしょう。

宗教が組織や権威に主眼を置くようになると、その「寄り添う」という姿勢が疎かになってしまうように思います。
「心の貧しい人は幸いです」の「幸いです」という語りかけを、忘れないようにしたいです。

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