宗教や信仰についての雑記 #270
◯記憶の行方
先日、認知症についての本を読みました。
認知症を発症すると多くの場合記憶障害を起こし、新しいことが覚えられなくなるらしいです。
そして症状が進むと、昔から思えていた記憶も徐々に失われてゆき、家族の顔や名前がわからなくなったりするそうです。
認知症とは、身体の機能が停止する前にアイデンティティが解体されてゆく病気、そんな印象を受けました。
我々が生きている間に蓄積した記憶は、死んだ後どこにゆくのでしょう。
亡くなった人の記憶は、形あるものに記録されたもの以外はうかがい知ることはできません。
我々の記憶は、死んだら跡形もなく消滅してしまうという考え方が現代では主流なのでしょうが、なんだかそれはとても寂しい気がします。
もし超越者が、無限に自己生成を繰り返すこの宇宙そのものだったとしたら、その超越者は、個々の人間の記憶を吸収し、その情報を自身の構造に組み込む可能性があるのではないでしょうか。
そして、その無限のシステムの中で、個々の記憶は全体の一部となり、元の形のまま保存されるのではなく、むしろ、超越者の自己生成過程の中で、記憶は変容し、新たな意味や価値を獲得する可能性があるのかもしれません。
何の根拠もないのですが、そんなことを夢想してしまいます。
何か大きな喪失体験をした人、愛する人を失ったり、生涯をかけた事業や研究が失敗したりした人たちにとって、残されたものは記憶しかありません。
そんなとき、たとえこの世界に何も残らなくても、たとえ自分が死んでも、それまでの大切な記憶は、この宇宙のどこかに永遠に保存される、あるいは組み込まれるのだと思えれば、それは一つの救いとなるのではないでしょうか。
そんなふうに思うので、私はこんな何の根拠もない夢想をしてしまうのです。
ただしそのことは、記憶の永続性を夢想することで、現実的な苦しみや悲しみから目を背け、虚構に逃げ込んでしおうとする危険性も孕んでいます。
決して容易なことではありませんが、現実と夢想とのバランスを取りながらなお、心の救いを求めてゆく姿勢が大切なのでしょう。