宗教や信仰についての雑記 #46
◯目に見えない次元
前回、野の花ならば喩えとしていいのか、という疑問で終わりました。
しかし、今、野に咲いている花々も長い年月に渡る自然淘汰の末に生き残ったもので、そこには熾烈な生存競争があったはずです。
野生種の花もやはり厳しい競争にさらされて今があるのであるのですが、ただその基準が売れるかどうかではなく、環境に対応して子孫を残せるかどうかという違いがあります。
花々はみな単一の環境に咲いているのではなく、砂漠に咲く花があれば水面に咲く花もあり、高山に咲く花もありあれば、道端に咲く花もあるというように、様々な環境に適応しています。
そこには熾烈な競争を避けて、新たな環境に活路を見出した命の強かさが窺えます。
でもその過程でも数え切れないほどの花が、新たな環境に適応しきれずに消えていったことでしょう。ですから今ある花はみな、おびただしい犠牲の上に咲いているのです。それぞれの個性は、数多の死の上に咲いているのです。
現実にこの世を生きてゆくには、競争や評価といったことが避けられないでしょう。それは個性を剥ぎ取った数字の次元です。
でも人生の次元はそれだけではなくて、掛け替えのなさへの次元も存在します。それをソロモンよりも美しく装ってくれる神という天上からのものととるか、足元に積層する大いなる命からのものととるか、それは人それぞれでしょう。
この世には二つの次元が重なっています。でも代替不可能性や掛け替えのなさの次元は、数字のようにはっきりとは目に見えず、比べることも評価することもできません。
それでも掛け替えのないものを失ったときに、人はその見えない次元を感じとるのでしょう。
イエスの生きた時代の社会は、目に見える次元は数字よりも律法を重視したのかもしれません。
律法により人を測る社会に対してイエスは、「それだけではない、目に見えない次元もあるのだ」と異を唱えた。私はクリスチャンではありませんが、そんなふうに理解しています。
あの歌が流行ったのは、世俗の目に見える次元しか見ようとしない社会への閉塞感が、人々の間に満ちていたからかもしれません。