見出し画像

宗教や信仰についての雑記 #299

◯苦い味

コーヒーのラベルやファミレスのメニューに、ときどき苦味や辛味のレベルの表示がある時があります。そんな味覚について少し考えてみました。

「にがい」と「くるしい」「からい」と「つらい」や「辛酸を舐める」といった表現など、人生の苦悩が味覚と同じ字で表されることがありますが、それはなぜでしょう。

調べたところその理由は三つほどあって、まず一つ目は、味覚は文化や時代を超えて、すべての人間が共有する基本的で普遍的な感覚だからというものです。それゆえに、人生の苦悩を味覚に例えることで、より多くの人々に共感を与えることができるのだろうということです。

二つ目は、苦味や辛味といった不快な味覚と、甘味や旨味といった快楽的な味覚を対比することで、人生における喜びと苦しみの対立をより鮮やかに描き出すことができるという、対比による理解です。

そして三つ目は、人間は身体と精神の両面を持つ存在ですので、苦味や辛味といった不快な味覚を、人生の苦悩に重ね合わせることで、身体と精神の不可分な一体性を表現していると言えるのではないかというものです。

これら以外にも考えられる理由はあるのかもしれませが、私はもう一つ違う理由を思い浮かべました。
それは、苦味とは元々毒を感じる味覚であり、その毒や辛味成分や有機酸は植物が自己防衛のために作り出した物質であるということです。

それらの成分は、長い進化の過程における厳しい生存競争の中ので、植物が虫や動物からの食害を防ぐためや病原菌の侵入を防ぐため、そして競合植物の生育を抑制するなどのことのために持つようになったものです。
つまりそれらは進化の過程で自然淘汰されていった個体の死の積み重ねの結果であり、それらの成分で防御してもなお、人間に食べられてしまうという、ある意味では植物の「苦悩」の顕れでもあるとも言えるのではないでしょうか。
ですから「苦味」「辛味」「酸味」は、苦悩の「比喩」などではなく、苦悩そのものの味ということになると思います。

我々は生きてゆくためには食べなければなりません。でも食物を食べるということは、それらの命を食べると同時にそれらの苦悩も一緒に食べているのです。だから我々の人生は苦悩に満ちていて、苦悩のない人生などないのだと、そんな空想をしてしまいます。

生きるということはそんな授受される苦悩の連鎖だと考えると、とても悲観的になってしまいそうです。しかしその一方、様々な宗教では、苦しみは単なる負の経験ではなく、魂を浄化し、新たな自分へと生まれ変わるための機会と捉えられることがあります。
それは悠久の時を経て受け継がれてきた苦悩を我々の代が昇華させること、そんなふうにも受け取れます。

受け渡された苦悩を苦悩のままで終わらせないこと。それがこの世に生まれ、今生きていることに課せられた責任なのかもしれません。
苦いコーヒーを飲みながら、そんなことを考えました。

いいなと思ったら応援しよう!