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ドイツの戦後教育について、ドイツで教育を受けた私が思うこと【Random Thoughts】

先日、ドイツという国を直感的にヒトラーとだけ結びつけられることについて語りました。

やはり私の価値観ではヒトラーはドイツ帝国の歴史の中でも絶対悪であり、それは決してひっくり返らない事実です。ホロコーストも全て現実です。


ということを前提にですよ。
私の受けてきた教育って本当に「フェア」だったのかな?と疑問に思う瞬間は大人になってから増えました。

当時人体実験されて殺されていった障害者と比べて親ユダヤプロパガンダが強すぎないか?結局"アホな国民"は言論統制でしか制御できないことを証明しているのではないか?と考えることが、特に隣に中国という言論統制している国がある日本に移り住んできてから圧倒的に増えました。
ドイツに残っていたらこんなことは考えなかったでしょう。それを考えること自体が"罪"なのですから。

私の頭の中を駆け巡っていることを乱雑に綴っていきます。


子供の頃、ナチスがユダヤ人をいかに被人道的な扱いをしたかを嫌というほど学んだ。「嫌というほど」と書くと沢山勉強させられたと思われるかもしれないが、どちらかというとある程度の期間を使って「ショッキングな内容を刷り込まれた」という表現の方が正確かもしれない。正直、ソーシャルスタディー(社会科)のカリキュラムの何分の一をホロコーストの教育に当てられていたのかは全く覚えていないし、何を何年生でやったとか、具体的な記憶が全くない。残ったのは「ナチス」、「ヒトラー」というトリガーワードへの強烈な嫌悪感だけ。

さて、ここで浮かんでくるのが、本当にそんな教育でよかったのかという疑問。
それはもう、人を強制労働させてみたり、他の強制労働者の前で公開処刑してみたり、シャワールームに閉じ込めて抹殺してみたり、やったことは惨い。その一方で生徒として得たものが「平和への祈り」でもなければ「包括的な社会形成の意思」でもなく「ヒトラーに関する事象への強い嫌悪感」でしかないのは、やはり何かがおかしい気がしている。もちろん他の受け止め方をした生徒も全国的に見ればいるのだろうとは思うのだが、やはり上記投稿通り、激情、とまで行かなくとも強い不快感を示す人が多いだろう。学歴にもよるかもしれない。頑張って考えてみたがよくわからない。

私は大卒だがドイツでの教育歴を考えると義務教育(Mittelstufe)さえ終えていない。低学歴の戯言と言われたら否定はできない。しかしこの世界、賢い人ばかりではない。私のように精神障害で学校をドロップアウトしたり、シンプルに勉強についていけなかったりで社会のレールから外れる人々は存在していて、その人たちも人権がある。人権がある限り発言権もあるし、自国での投票権はあることを考えると、世の中はエリートだけでは回っていない。

ドイツは敗戦国である。よって罪を償うことが求められた。賠償金等以外にも、ヒトラーを後世に渡って批判し続け、ヒトラーを邪悪な歴史上の人物ランキングNo.1と教育することとなった。それをもってドイツとユダヤ人、ないしイスラエル人との諍いの「不可逆的解決」とした。

それから長い時が経った。

イスラエル人、もといユダヤ人たちは持ち前の文化や思想を実践することで、国を持たない(という表現もできる)民として世界中で成功を収めてきた。特に米国は(原住民が住んでいた)未開の土地を開拓した民によって建国されただけあって、国を持たない民族であるユダヤやクルドに近い距離感を持っていて、彼らを支援すべきだという言説が強いとアメリカ人からは聞く。そんなアメリカの強大な影響力も受けてユダヤ人は「世界可哀想な民族選手権」トップティアになった。世界のどこかで誰かがナチス風の衣装を着よう物なら厳しく糾弾するようになった。

(私はナチス風制服は決して趣味が良いとは思えないが、その魅力的なデザイン性が当時の党員を鼓舞してきた現実は否定できないと思っている。その制服を「ナチスの象徴」と定義して、その"美"という罪のないものに魅入られた人々を袋叩きにする道具にすることには一概には賛同できないでいる。ハーケンクロイツ、鉤十字もしかりで、本来はスワスティカとして太陽や幸運などを象徴していたシンボルも、これまた「ナチスの象徴」と定義し、使用した者を罰するのは正しく昨今騒がれている「文化の盗用」であり、問題、というか課題のある思想だと思っている。鉤十字への全面的な嫌悪感こそが「文化盗用」そのものだと思うのだ。)

そうしてイスラエルは国体を保つべくパレスチナに侵攻し続け、土地を奪った。イスラエルにしてみれば"神"に約束された土地を勝ち取っただけなのかもしれない。奪っていないと主張するのかもしれない。しかしパレスチナ人の視点からすれば暮らす土地を追われ、彼らに向けられた攻撃は罪のない市民の犠牲を伴っている。

ドイツはこの侵略から目を逸らし続けた。イスラエルを支持することは国是となっていたからだ。ユダヤ人を迫害したことに対する禊なのだ。ドイツはもう二度と「レイシスト国家」と呼ばれたくないのだ。だから国民たちを幼少期から「教育」して「ユダヤ人がいかに悲惨な目にあったか」「ナチスはいかに悪か」を植え付ける。

しかしこのような「洗脳教育」が何を産むかと言えば「疑念」である。
全員が疑念を持つとは言わない。しかしあそこまでキツく「教育」されると「何か裏があるのではないか」「所詮戦後の精算としてこの教育をやっていて、お国がどっかと仲良くやるために罪の意識を私たちに植え付けているのではないか」と考え始める人は絶対に発生してしまい、それが行き過ぎると陰謀論者やネオナチになる。意外かもしれないがドイツにもネオナチやそれに似た組織はちゃっかり存在している。違法でも存在しているのだ。ドキュメンタリーでしかみた事がないが、彼らは音楽フェスもやっているらしい。
私はネオナチにはならなかったが、「本当にこれが正しかったのか」と疑問は持ち続けてきた。そしてその答え合わせが、今ガザ地区で広がっている現実でもあるし、ドイツでのAfdの躍進のきっかけの一つでもあるし、「反ユダヤ主義」と「イスラエル批判」を混同による国家方針と国民感情の混乱でもあると考えている。突然世界が右傾化したわけではなく、右傾化へのレールは戦後の反省からすでに敷かれていたのではないか。国による「特定の思想の刑罰化」が陰謀論に騙された"アホな国民"を沈静化させる手段だったのだろう。しかし"アホな国民"だって、低学歴の国民だって選挙権はある。「右翼=危険思想」と簡単に認定する人もいるが、右だろうが左だろうが危険な人は危険なのであって。そして危険な人々を生み出すレールは教育の中に仕組まれていたのではないか、というのが私の疑念なのだ。そして私自身がその"アホな国民"になってしまった一人だと思うのだ。

上の記事ではReichskristallnacht(水晶の夜事件)がユダヤ人排斥運動の始まりであるように語られているし、象徴的事件として私も学んだが、私が日本で大学に進学して得た知識では、それよりもずっと昔からヨーロッパではユダヤを拒絶していた。マルティン・ルターでさえも1543年の書の中で「シナゴーグを焼き払え」などと書き綴った。(„Von den Juden und ihren Lügen“)

私の周りではユダヤ人の排斥は差別に基づくと考えている方が多いが、私自身はこれは宗教対立が根本原因だったと考えている。そしてナチスは「国民の敵」として彼らや他の「適正でない人々」を優生思想に基づき積極的に駆逐した。ちなみに優生思想もナチスの発明ではない。ドイツはアメリカの(先進的だった)優生学に基づく精神障害者の結婚の禁止などに強い影響を受けた。

ナチスが間違っていなかったとは毛頭考えていない。そこは決して勘違いしないでほしい。

アドルフ・ヒトラーはオーストリア人であった。これは私の想像だが、だからこそ彼はドイツ人を「外」から見ていて、ドイツ人の国民性を利用したように思う。
変な意味で捉えないでほしいのだが、ドイツ人は周囲をよく見ている。すれ違えば相手の姿をジロジロ見る。これは悪気があってのことではない。普通なのだ。そして後ろを振り返ってみると、彼らはまだ見ている。これは私がアジア人だからでは、実は、ない。このドイツ人の特徴は、オランダ系だった白人の私の英語の先生が私に教えてくれた、というか気づかせてくれた特徴である。それまでは私もドイツ人同様に人が近づいてくればよくじっと見ていた。先生に彼女が「ドイツ人はジロジロ見てくる」ということを指摘していなければ、私は東京に来ても同じことをしていただろう。
もっというとドイツ人は誰かが不審な動きをすると身構え、観察する。年配の方はポケット手帳を持っている人が多く、その手帳とペンを取り出す。事故や事件が起きると第三者が「私は見ましたよ」と駆け寄ってくる。監視社会なのだ。交通事故が起きた時も、日本では通行の邪魔にならないように車を退けると聞いて心底驚いた。ドイツは必ず現状維持で、警察が来るまで何も触らない。現場検証をするからだ。こう聞くと怖いと思う人もいるかもしれないが、盗難や当て逃げの車がいたら必ずと言っていいほど通行人がその車のナンバーを教えてくれる。監視し合うことで治安を守っているのだ。そしてこの性質は戦中に突然そうなったものだとは到底思えない。根拠はないが、突然国民全員の心に芽生えてきたとは思えないのだ。元々そういう社会で回っていたのをナチスが利用し、人々は「正しさ」のために隣人のユダヤ人を警察に差し出したのだと思っている。

障害者に対する(死に至らせるまでの)人体実験もそうだ。社会は「障害者って生きてるだけで可哀想」という風潮に飲み込まれたのだ。やまゆり園の事件の犯人もその考えに飲み込まれてしまったのだと思う。そして障害者に接している人ほど疲弊して、飲み込まれやすいんだと思う。
「こんなに苦しい思いをしながら生かされて何になる?」
精神障害当事者としても、そう思うことがないと言うと正直嘘になる。しかし、だからこそ、私たちは社会をより「何人たりとも生きやすい社会」になるべく努めなければいけない。その意識を強く持たなければならない。「生きているだけで可哀想」な人の存在が、社会をより良くしなければならないことの証左である。


時折、「(戦後賠償や歴史観について)日本はドイツを見習え」という言説を目にする。私は現地教育受けてない人に「見習え」と言ってほしくない。
そういう人にはまず私の考えを読んだ上でこの動画を見てほしい。

この動画は「なぜ私たちはホロコーストについて間違った振り返りをしてしまうのか」と題されたもので、自分の先祖は当時「ユダヤ人を助けた」とする人々と「犯罪者であった」とする人々のアンケート統計から見えてくる謎を解き明かすものである。

この動画は「責任」と「罪」を分けて語っている。

AfDは„Schuldkultur“(罪の文化)と言う言葉を使い、私たちが受けてきた教育は「国民に罪悪感を植え付けている」としている。そして、私もそう感じる一人なのだ。しかし「ホロコーストを振り返るのは罪の意識を持つためではなく、歴史的事実に責任感を持つことで未来をより良くする意識を持つためである」とこの動画は締めくくっている。

「日本はドイツを見習え」と主張する人は国家「君が代」は「明治天皇を讃える歌で戦争を賛美している」と主張するような人が多い印象が。私の両親もそうだからかもしれない。この人たちは日本も「罪悪感」を感じながら生きるべきだと思っているのだろうか。どうなのだろう。もしそうだとしたら私は大反対だ。
「責任」と「罪」は別で、当時起こった礫事情の出来事をひっくり返せない私たちは罪悪感を持つ必要なんて、本来、どこにもないのだ。

それでも「罪」を感じる人がそれなりにいる現実がある。私もその一人で、どうしてそうなるのか?を考えないといけないのではないか。教育を受けた個人的な感想としては、感情に訴える部分が大きすぎるんじゃないか。「倫理的に良くない、正しくない」という理性的な考え方の代わりに「可哀想」が前面に出てる気がしているのだ。もちろん、当時迫害された人々が可哀想じゃないわけじゃない。しかし本来ならば公平性、均衡の保ち方、(文化間で異なる)倫理観について理解する方が先なんじゃないかと思う。その上で学ばせる議題なのではないかと思う。10歳にもならない子供達に「私たちのご先祖は残酷な方法で大量の人々を殺したのです。」と教えたところで、「可哀想」以上の強い感情を持たせるのは難しいのではないか。この感情を拗らせた結果が「ネオナチ化」という形の反発なのではないか。

「迫害される人々を助けるべきだった」「彼らのために声をあげるべきだった」と今更言ったところで、それは安全地帯からうだうだ言っているだけで、現実にそれをやると自分たち(ドイツ人)の先祖は無駄死にしたのではないか。どうすれば確実に助けられたのか。
そのためには当時の状況を細かく分析することは大事だと思うのだが、その状況を理解するためには当時の人の気持ちはかなり大切なな部分になるはずだと思っている。上記動画ではアンケート結果をもとに「多くの人は自分のひいお爺さん、ひいお婆さんが犯罪者だったなんて思いたくない」というコメントがあったが、正しくその通りで、仮にあの状況で傍観者や手を下した者だった人たちが「正直あの人たちは嫌いだった」と言っても怒られないべきなのではないか。しかしユダヤ人を嫌悪していた人は裁かれてしまった。現代社会でも「それはレイシズムだ」と裁かれる。これでは融和は進まない。

まあ、正直、自分の子供時代を思うと「嫌われてる人を助ける土壌」は育たない社会だったなと思っている。私に「娘に近づかないで」と言ってきた同級生の母親は私の学校の先生だったが、校庭でそう言われて泣き出した私を見かねて、彼女が立ち去った後そっと抱きしめてくれた別の先生が"唯一"「嫌われていた私に寄り添ってくれた人」だと、今思い出しても感じる。

過去に投稿した通りなのだが、ちょっと変な奴を阻害する雰囲気は日本の漫画で読むイジメの比じゃない感じではあった。(申し訳ないけど、正直日本の学校の雰囲気が本当にわからない。)いじめる対象のサイクルが早いというか、常に誰かが何か悪口を言われてる雰囲気で、それが普通だったなと。陰鬱な雰囲気が漂う社会だったと思う。少なくとも私の周りでは。
ホロコーストの「責任」を背負った社会が本当に排他的でなくなっていたなんてことはないのだ。


というわけで小学生から始まるホロコーストに関する教育が本当にドイツ社会をより「包括的な社会」になるべく寄与しているかと聞かれるとやはり疑問だ。最近はトルコ人以外の移民も増えて「価値観が異なる人とどうやって支え合っていくか」を考えるようになったかと思いきや、AfDの躍進が示すように民族間の溝は深まっている。「戦後の反省」は本当にこれで良かったのかと、所詮外国人の日本人である私を、ふと、今も尚、悩ませる。

私は「話し合えば分かり合える」とか、そういう都合のいい言説は信じていない。しかしだからこそ私たちは全員知恵を絞って、議論を重ねて、どうすればお互い支え合いながら生きていけるかを考え続けなければならない。人間は所詮動物だ。だからといって知恵を使うことを放棄して何が生まれるというのか。戦い、殺し合い、生き残ったやつだけが勝つ、それでいいのか。それを本当にやると言うのか。それを実践している人々を見て、心が痛まないのか。

私たちはまた「傍観者」になってしまうのか。
そして未来で「犯罪者」と語り継がれるのだろうか。

それとも当時の人の「立場」をもっと重んじられる社会が形成されているのだろうか。
「立場」を考慮して、「罪」と「責任」を分けて考えられる世の中になっているだろうか。
「責任能力がないから罪が軽くなるなんて酷い」とか、そういう思考にならない世界がそこにあるのだろうか。


内容が精神障害/精神疾患の話に飛んでいってしまいそうなので今回はここまで。
拙文失礼いたしました。

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