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【エッセイ集】⑮好まれざるホテル客

 フロントカウンターのベルが鳴った。
身長は180cmといったところか?
フロントバックにある事務所入口からチラリと見える。

チェックインカウンターでは未だ「トレーニーバッチ(見習い)」がとれない、元鍼灸師の夏田が受け付けをしている。
その客はレジストレーションカードに名前と住所を少し猫背気味に屈み込んで書き入れている。長身には少しカウンターが低いのだ。平成元年に完成したこのホテルは、最近では珍しくなった茶色の木製カウンターで、所々が剥げかかっており、古い老舗のバーカウンターを連想させる――と同時に、キャッシュトレイに少し乱暴に「クレジットカード」をのせた。
「かしこまりました」
夏田はパソコンを叩きながら、Gキャットに同時進行で会計を読み込ませている。
エラー表示が出ているようだ……何度か読み込ませている。
やはり駄目なようだ。しばらくすると夏田はフロントバックの入口から「すみません、ちょっとお願いできますか?」とわたしに助けを求めてきた。
フロントカウンターに出たわたしは、なんとなく様子を見ていたのですぐさま、カードを再度差し込み、機器に読み取らせた。
「エラー表示」
どうやら海外銀行系のクレジットカードであり、私も初めてみるものだった。
「お客様、他の国内カードはお持ちではありませんか?」と丁寧に尋ねた。
「さっきまで、海外にいて使えたばかりだから、それはおかしい」
伺うとほかのカードは持ち合わせていないという。
今度は、磁気面をスライドしてサイン式ならばとやってみたが同じく進まない。
「どうなってんだ!!」と苛つく客。
「支配人、ちょっとよろしいですか?」
チェックインごときで支配人を呼ぶことはまずないが、仕方が無い。
渋々カウンターに出てきた支配人がGキャットの設定画面を海外向けに切り替えてカードを差し込むと、エラー表示がクリアした。
中国向けカードへの切り替えを行うことはあったが、通常、インバウンド客も大抵問題なく会計はすすんでいたので、この一動作をわたしも熟知していなかった。
「使えるじゃないか?」客が支配人に対して怒鳴りだした。
「従業員教育がなってないんじゃないか?」
「申し訳ございません」と頭を下げている。
「このままじゃ、すまないぞ」などと言って、支配人を脅かしている。
私と夏田は事務所へさがった。
永遠と押し問答が続いている。かなりしつこい客だ。

やっとエレベーターで客室のある階上へと上がっていった。
すると、間もなくフロントにキーを預けながら
「この辺に美味しいおすすめの飲み屋はあるか?」と聞いてきた。
わたしは「駅の反対側にある三河屋が評判が良くておすすめしています」と、周辺の飲食店の場所が書き込まれた地図を広げながら説明した。
「じゃあ、そこに行ってみるかな」と言いながらロビーを横切り、自動扉へ向う時に、支配人がいそいそと事務所から出てきて、また何度か頭を下げているのが見えた。
「会計が少しスムーズにいかなかっただけなのだからもういいだろう」とわたしは心の中で呟いた。部屋の清掃できていなっかったというような決定的な落ち度でもないし……。
しばらくすると、支配人は事務所に戻ってきた。

わたしのホテル仕事の信念に「クレームのあったお客様は、必ず平常心かそれ以上の気持ちに戻ってからお帰り頂く」と決めている。
簡単そうでこれはとても難しい。
一歩間違えば「油に火を注ぐ」ことになりかねない。
とにかく、チャンスがあれば声をかけて会話で解決の方向に導く。
今晩のこの客もこのまま明朝チェックアウトさせたならば、予約を入れてきたネット・エージェントに書き込みをしかねない。それは不名誉であり、何よりも自分のポリシーに反して納得いかない。
夜も更けてきた――時計を見ると間もなく23時を差すところだ。
支配人も先程、自宅へ帰っていったところだ。
わたしは夏田に「今晩は先に仮眠に入っていいよ」といった。
チェックインもあらかた終わっていた。
「それではお先に」といって、仮眠室のある階上へと消えていった。

「さて、さっき出て行った客がそろそろ帰ってくるころだな」と思いながら、フロントカウンターでパソコン処理をはじめた。すると、程なくほろ酔いで帰ってきた客が部屋番号を告げずに手だけを出して部屋のキーを求めてきた。
わたしはすぐさまキーボックスから取り出し、渡しながら「三河屋はいかかがでしたか?」といった。
「ああ、いい店だったよ」
「下町らしい雰囲気も食べるものも良かった」と気分がよさそうだ。
「しめた…チャンス」と思いながら、
「先程の会計処理ではご迷惑をおかけしました」
と再度、頭を丁寧にさげた。
すると「研修生のお兄ちゃんにもよく教えてあげな」と機嫌よさそうにいった。
「実は、わたしの亡くなった父は帝国ホテルのホテルマンだったんだ」と話しはじめた。
「定年まで勤め上げてから、独立して仲間と海外で飲食店をはじめたんだ――昨日までそこに行っていたんだよ」
「そうでしたか」とわたしはいい、こころの中では「ホテルマンの息子では、うるさそうだな」と自分の中で少し警戒心を戻した――まだまだ油断できない。
「その親父からよく言われたのが、ホテルに泊まったら何でも注文をつけるべき」だったとさらに語り出した。
20分くらい話をしていただろうか――もうすぐ日付が変わる。
「じゃあ、おやすみ。君もがんばってお客さんを喜ばせてあげて」と激励にも似た声をかけてもらいながら、エレベーターで客室へと消えていった。

「もう、大丈夫――書き込みをする気持ちはないだろう」と確信し、ホットすると疲れがどっと出てきた。
翌朝、支配人が出勤するやいなや昨晩の会話や出来事を報告した。
「さすがだね、誰にでもできる技ではない。会話に引き込む空気感がいつも絶妙にうまいよ」
支配人も朝から嬉しそうだった。
下手に書き込みをされれば、その火消しがやっかいなのだ。

エレベーターの扉が開いて、例の客がチェックアウトをするのにカウンターの前へやってきた。
「夕べはありがとう、支配人から心付けまで頂いてしまって……よろしく言っておいて」といいながらカバンを抱えて出て行った。
「心付け?」
きっと事務所にいた支配人にも聞こえていたはずだ。
「支配人、夕べの客に何か渡したのですか?」
「そんなこと言ってた?」と、少しおとぼけ顔をした。
そうだったのか……自分の接客スキルで、クレームを解決していたとばかり思っていたが、実はこっそりと支配人が助け船を出してくれていたのだ。
心付けを渡すというのはよっぽどのことだが、夏田の手前、先輩であるわたしにこれ以上恥をかかせたくなかったのだと思いに至った。
そんなことはつゆにも口には出さずにいた支配人の優しさがしみた。
ロビーに差し込む朝日が、こんなにすがすがしく感じた朝はひさしぶりだった。

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