人のトラウマを感じ取れるのは、科学ではなく、人の心だけである。
医療、司法、教育、福祉、産業など、色々な分野で、トラウマインフォームドケアが流行っている。
トラウマとは、心の傷である。トラウマは、人の行動に影響を与え、対人関係の仕方を大きく左右する。例えば、親の暴言による虐待を受けた人は、大声を出して話す人がいると、体が震え、関わるのを避けようとする。また、過酷ないじめを受けた子は、友達と関わるのが怖かなり、引きこもってしまい、同世代の友達と一緒に集団行動をするのを回避するようになる。さらに、母親から愛されずに育った男性は、そのトラウマの故に、女性に母親を求め、交際相手を過剰に束縛し、ストーカー化する。さらにまた、支援者がコロコロと変わってきた孤児は、その裏切られ体験により、人の善意を信じられなくなる。
このように、心の傷としてのトラウマは、人の心だけではなく、対人行動やコミュニケーションの仕方に大きな影響を与える。だから、ソーシャルワーカーやカウンセラーは、支援対象者のトラウマを認識した上で、コミュニケーションをとり、支援対象者を理解することが求められる。
簡単に言えば、トラウマインフォームドケアとは、トラウマから支援対象者の行動を理解して、コミュニケーションをとる、援助者の態度のことである。虐待や非行、犯罪被害者ケアにおける臨床では、とても必要になる考え方である。産業カウンセリングにおいても、クライエントが抱えるハラスメントによるトラウマ理解も重要である。
さて、ここで、トラウマは、心の傷であり、決して目には見えないことに注意しておきたい。
もしトラウマを見ることができるのなら、深夜徘徊する非行少年や虐待を受けてきた触法障がい者は、体中をズタズタに傷つけられ、グルグルに包帯を巻かれた姿に見えるだろう。しかし、人々には、その重傷の姿を見ることができない。人々には彼らのトラウマが見えていないために、彼らが問題行動を起こすと、彼らを非難し、許さず、排除するのである。排除は、さらに彼らの心の傷を深め、孤立化を促し、問題行動の再生産をもたらすことになる。
では、この目に見えないものをどのようにして、認識できるのであろうか。
本人の生育歴を調査し、臨床心理学や社会学から分析することで、わかるのだろうか。また、本人自身に質問しないとわからないのだろうか。
トラウマとて、所詮、心の傷であり、その痛みを感じとるのは、人の心しかない。人の痛みを感じ取ることができるのは、他の人の心である。知識のレベルでトラウマを分析しても、本当に知ったことにならない。本当に人の心の傷を認識できるのは、人の心だけである。他者のトラウマに触れた時、人は涙するのである。その涙のことを同情という。その人の身代わりとなって、泣いているのである。それが本当にトラウマを感じとって知るということである。
例えば、ハンバーガーの味を知るために、いくらハンバーガーの成分を科学的に分析しても決して知ることはできないが、人はハンバーガーを食べることでその味を知ることができる。それと同じく、生育歴や性格テストを行い、心理学的に分析したところで、ある人の心の傷やその痛みを本当に知ることはできない。人の心の傷やその痛みを知るためには、同情という心の働きで感じとる他ないのである。ハンバーガーを食べてその味を知るのと同じである。人の心の痛みは、科学ではなく、人の心でしかわからない、そういう代物である。エンパスと呼ばれる人には、この心の働きが強く、人のトラウマやその痛みを感情的に感じとる能力を持っている。
仏教思想的に言うと、トラウマとは、心の業(傾向性)である。マイナスの業である。しかし、ある意味、トラウマは変えることができる。それを受けとめる他者に告白し、対話することである。トラウマ体験という事実は変わらないが、対話によって、トラウマの意味を変えることはできる。トラウマの意味が変容すると、トラウマがもたらしていた心身への無意識の影響も変化してくると考えられる。
そのような原理に従って、トラウマ治療にナラティヴセラピーが活用されることがある。トラウマにまつわる物語を再構成し、トラウマが自己肯定感を下げないような意味内容にしてしまうのである。一方、認知行動療法はトラウマそのものに対する変容を促すのではなく、トラウマに起因する不適切な行動を制御するのに役立つ心理療法である。
最後に、トラウマインフォームドケアという考え方は、表面上は、トラウマを否定したアドラー心理学やロジャース心理学と対立することを述べておきたい。つまり、過去にとらわれず、新しい未来の自分を作っていこうとする立場である人間性心理学と鋭く対立するように見える。
しかし、これらの人間性心理学も、トラウマの作用を認めた上で活用するのなら、むしろトラウマの意味づけを変えることができる可能性はあると思われる。