教育は一般性のかたまり

 教育に携わる言動で極端な例を出して耳目を集めようとする手法に最近は、大きく違和感を感じるようになった。

 若い頃はそうした着想に魅力を感じていた自分がいたのかもしれない。自由主義教育による教育改革議論というのは1990年前後に非常に流行ったスタイルだと記憶している。しかし長く公教育に携わってくるとそうした言動に対して胡散臭さを感じるようになってきた。
 例えば勤務間インターバル、宿題や校則の廃止、アバターや自己調整学習などの極端なICT利用etc etcである。いわゆるエッジのきいて、かつ耳触りの良い作文を伴った煽り記事を見ていると現場で真面目に取り組んでいることがアホらしくなってくる。

 画一性を担保したいわけではない。しかし社会の要請は一般性を重視している。極端に進学率に偏って教育を施しても結局卒業にまで至らないような数字づくりには何の価値もないのではないかということ。

 例えば積極的な不登校をした人間が芸大に通ったとしてもそこから紡ぎ出される一般性はない。物語として面白かったとしてもそれは一般化できる話でもないし、誰にでも援用できる話でもない。
 一般化しようとするなら一般人にも可能な程度のハードルの低さが必要になるはずである。一般人がそんな強い摩擦を前提とした生き方を許容できるとも思えないし、望んでいるとも思えないからである。だから我慢をしろという話ではない。どこまでそうした我慢と摩擦とがトレードオフできるかという話である。

 それが許容の度合いの話であるなら、大きな事例に対する個々の判断の話になるのだけれども、それを何重にも遠回りして時間を費やして試せるほど大人に達するまでの時間を多くはない。であるならその限られた時間は最も一般的な手法による教育で使う方が後から考えた時の効率として妥当性があるのではないかというだけの話である。

 自分だけが特別であるかのような幻想を抱きがちになることはよくわかるが、そうではないことが日本型学校教育が紡いできたゲンジツなのではないか?そう思うんです。

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