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温泉に入っているとき、何考えてます?
温泉に入っているとき、心は騒がしい。
ひさしぶりに、一人で出かけたので、帰りに温泉に行ってみることにした。
夫に「ちょっと寄らせて」と頼み、タオルを持って、町外れの温泉に向かう。
わたしの住む町に、温泉はない。
温泉、というかお風呂が好きなわたしにとって、それは冬の過ごし方をひとつ見失うことだ。
だから、たとえ町外でも市外でも、用事のついでに温泉に立ち寄ることは、よくある。
子連れでは、なかなか行けないけど。
しかし、昔ほど温泉を楽しめなくなった。
学生時代は気楽で、友達といつまでもいつまでも湯に浸かって、どうでもいいことを駄弁り続けた。
露天風呂で、ルームメイトと鍋やおでんがいかに美味いか話し続けて、のぼせたこともある。
星の綺麗な空の下で、「うちはもつ鍋が最高で」とか「おでんはやっぱり卵が」とか言うのは気分がよかった。
しかし、今は育児の身。
子どもを置いて、夫にすべてを任せて出てきたせいで、どうしても湯につかりながら、「育児」や「家事」のことを考えてしまう。
◯時までに帰らなきゃな。
帰りにスーパーで、夕飯の材料買わなきゃ。
そんなことばかり頭をめぐって、ちっとも無心になれなかった。
子どもの頃、温泉では人に見られるのが恥ずかしくて、そればかり意識が向いていたが、大人になると、そこはどんどん気にならなくなる。
湯を見つめ、岩場を見つめ、窓から外を見つめ、心を無にしようと努めるのに、頭の中は夕飯や掃除機やオムツのことばかり。
止まらない。
はあ、休まらないなあ。
いちばん辛いのは、「今日はこうやって休んだんだから、帰ったらちゃんと頑張らなくちゃ」と思うことである。
リフレッシュしたから、帰宅後は子どもたちと笑顔で過ごさなきゃいけない。
今日は家事サボったんだから、明日からは自炊とかしなくちゃいけない。
そんなプレッシャーを、自分で自分にかけてしまう。
「呪い」のようだ。
自分でかける、重たい呪い。
でも、それってよくない。
分かってる。よくないよ。
今日休んだからって、明日もがんばれるとは限らない。
この温泉ですら、頭の中はあんまり休まっていないのだから、帰ってからも、明日も、まだまだ笑顔になんてなれないかもしれない。
子どもたちと離れて、ひとりの時間を作ったけど、まだまだ足りていないかもしれない。
あるいは、今は休まらなくても、案外夜は気持ちよく眠れて、明日からはバリバリ元気かもしれない。
そんなの、分からない。
だから、「今日休んだ⇨明日から頑張れる」という図式を、自分の中から撤廃しなくては。
自分を自分で苦しめちゃダメだ。
もっとこわいのは、夫や子どもにも、この「呪い」をかけそうになることである。
あなた今日出かけたんだから、明日は家のことしてくれるよね?
長男ちゃん、今日園を休んだなら、明日は行けるよね?
おなじだ。
これも、「呪い」の言葉だ。
でも、わたしたちの心は地続きであある。
ロボットじゃない。
「今日は休み、明日はがんばる」みたいに、一日ごとに100パーセント切り替えることなんてできない。
心も体も、いつだって途切れることなく動き続けていて、わたしたちはそんなままならない心や体を引きずりながら、上がったり下がったりして、生きている。
厄介なのだ。
面倒臭いのだ。
だから、人間なのだ。
温泉に浸かりながら、そんなことをぼんやり考えた。
いつのまにか、20分ほど浸かっていて、額からほろほろと汗が落ちてきた。
あがるか。
いさぎよく、脱衣所に向かう。
体を拭いて、髪を乾かし、いくぶんさっぱりした気持ちで暖簾をくぐった。
混んでいたので、コーヒー牛乳などはあきらめ、さっさと下駄箱で靴を履き、外へ出る。
まだ昼間の、まぶしい日差し。
よく晴れた空の下、冷たい風を浴びても、芯からあたたまった体はまったく狼狽えない。
うん、温泉入ったったわ!
来たときより、強くなった気がした。
わたしは、軽い足取りで車に乗り込み、そのまま家に向かった。
もちろん、途中のスーパーで夕飯を買って。
夫にも、「子ども達の様子どうだった?」と連絡も入れておいて。
その夜、平穏なまま子どもたちは眠り、わたしもいつもより早く寝ることができた。
温泉であたたまった体は、ちゃんとわたしに、安らぎをくれた。