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ぼかすのは、そのまま書いたあとで。


「日記」を書いている。
「note」には、月末にまとめて投稿している。


身バレしないよう、あまり情報を出しすぎないよう気をつけながら、日々の出来事や感じたことをつらつらと書いてきた。
毎月末に、すべての文章を見直し、具体名や出来事の詳細をぼかしてから、投稿する。
30日分の推敲。
これがけっこう、大変だったり。
でも、楽しいから続けていた。


しかし。
先々月あたりから、この「ぼかし」について、小ずるいわたしが顔を出した。

どうせ投稿の際に修正するのだからと、はじめから「ぼかして」書くようになったのである。

例えば。
夫や息子たちを「長男」などの肩書きで書く。
おとずれた場所の具体的な名前も、あらかじめ曖昧にして書く、などなど。

たしかに、月末の手直しはすこし減った。
でも、これって。
ほんとうに、わたしが書きたかった「日記」だろうか。


先月分の日記の下書きを読みながら、「何かがおかしい」と眉を顰めた。
下書きの方を読み返しても、具体名が書かれていないので、どこの公園に行き、どのラーメン屋さんに行ったのか、ぜんぜん分からない。
記憶をたどり、写真を見返して、「ああ、この日の日記だったのか」とおもいだす。

でも、それはもはや、「日記」の役割を果たしていないのでは。


はじめから、その日の出来事がいっさい書かれていない日もある。
ふと考えたこととか、思いつきだけをメモしている日。
ただの書きモノとして読むのはおもしろいし、そのまま投稿できるからラクなんだけど。
読み返してもその日が「どんな一日」だったのかは、分からない。

はたしてこれは、「日記」といえるのだろうか。
いつのまにか、投稿が目的にすり替わってしまったせいで、日記が「日記」として機能しなくなってしまった

本末転倒。
わたしが書きたかった日記は、たぶん、コレじゃなかった。

というか、「日記」って、なんだっけ。
分からなくなっちゃった。


◇◇◇


そもそも、日記をちゃんと書こうと思い直したたのは、古賀史健さんの『さみしい夜にはペンを持て』がきっかけだ。

日記の読者は、「未来の自分」。
日記を書けば、「未来の自分」が、今の自分を知ることができる。
今の自分の頭の中や心のうちを、未来に残しておくことができる。

日記は、出来事の羅列を書く場でもないし、愚痴や不満を吐き出す場でもない。
日記は、未来の自分に「分かってもらう」ために書く。

この本を読んでから、もともと書いていた日記の書き方をあらためた。
おかげで、前よりもうんと、楽しく書けるようになった。



それから、くどうれいんさんの『日記の練習』に出会った。


毎日書いたものを、後日まとめて投稿されていたのが「日記の練習」。
さらにひと月をふりかえってまとめた、「日記の本番」もある。

そうだ。
わたしも「練習」のつもりで、日記を投稿しよう。
そのために、自分しか見ない「見せない日記」とはべつに、「note」に投稿するための「見せる日記」をつくった。
投稿をはじめたのは、今年の2月。
日記を書くことは、ずっと楽しい。


そして今、あらためて自分に問いかけたい。
何のために、誰のために、「日記」を書くのか。
どうしてそれを、「投稿」するのか。


日記について考えているとき、『ちょっと踊ったりすぐにかけだす』の著者・古賀及子さんの話を思い出した。

あと、自分の日常のことを表に出すっていうのは、何かを削いでクリエイティブをしているような気分になってしまうこともあって、いいのかなとおもうこともあるんですけど。
「わたしのやり方だったら間違いない」って、信じるっきゃねえっていう感じですね、ここまできたら。

北欧暮らしの道具店youtubeチャンネルより


「じぶんの日常を表に出す」というのは、何かを削いでいる。
普通なら、知られなかった自分たちの生活、自分の心の中身、奥底に秘めた思いが世の中に知れ渡る。
それには、「覚悟」が必要だろうし、心身を削っているような感覚におそわれるのかもしれない。
ちょっとだけ、分かる気もする。

そうか。
もしかするとわたしは、その「削れる」のをおそれているのかもしれない。

ありのままを書いて、投稿のためにおのれの日記をぼかして、削って、出せるものに磨き直して。
その行為によって、じぶんの何かが「削れている」ような気持ちになるのにビビッてしまったから、はじめから「ぼかして」書いてしまっていたのかも。 

ううん。
まだ、自分の気持ちがよく掴めない。


でも、これだけは言える。

どんなことを書いても「わたしの日記」だ。
わたし「だけ」の。

それを、なんでもかんでも「晒す」のがいいわけでもない。
嘘をついてまで、表に出したいわけでもない。

ただ、明日からのわたしにできることは、「日記」を丁寧に、大切に、扱うことだ。
そして、月末にその日々をふりかえりながら、表に出せるものだけをつまみとって、投稿する。
それだけで、じゅうぶん。

そんなつまみとったような日記を、読んでくださる方がひとりでもいらっしゃったら。
それって、うれしい。
とてもとても、うれしいことだから。


手元に残す日記には、なるべくそのままを書いて、あとでぼかすことに決める。
手間だけど、わたしがそうしたいから。

この記事を書きながら、くどうれいんさんの「日記」についての考えが書かれた、お気に入りの記事を読み直した。

日記を書き続けるようになると、大事でないことから書き残されることが増えておもしろい。どこかへ行ったとか、何を食べたとか、他人から「きのうはどんな日だった?」と尋ねられて答えるようなことをわたしはあまり日記に書かない。覚えていられることは書かなくていい、だって覚えているのだから! それよりも、いつもより鳶が低く飛んでいたとか、ささくれが薬指の両側に出来てクワガタみたいでかっこいいとか、そういうくだらないことばかり書いている。
(中略)
たくさん書いていると、たくさんおもしろいことが見つかるだけなのに。おもしろいから書くのではない、書いているからどんどんおもしろいことが増えるのだ。

下記の記事より引用


よし。
明日もまた、「日記」を書こう。


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