広げたあとに、ひとつに絞って。
うまく書けないときは、間口を広げすぎているのかもしれない。
きのう、「3月の別れ」の記事を書いたとき、そう思った。
はじめは、人生で経験した3回の「別れ」について書いていたのだ。
しかし、なかなかまとまらない。
着地点も見えてこない。
こりゃだめだと思い、一旦手を止めた。
しばらく考える。
材料が多すぎるんだ。
どれかひとつにしよう。
一番心にのこった「別れ」はどれだろう。
そう考えたとき、「大学進学のときの母(と祖母)との別れしかない」と思い、そのエピソードに絞ったのだった。
ひとつに絞るのは、勇気がいる。
わたしは欲張りで心配性なので、ついひとつの記事にたくさんのエピソードを詰めてしまう。
しかし、詰め込み過ぎは良くない。
たとえば、記事をひとつの「風呂敷」とする。
その中に、ゆとりを持って包めるのは、ひとつだけだ。
昨日の「3月の別れ」の風呂敷もそう。
包めるエピソードはたくさんあるんだけど、あえてひとつだけにする。
その方がていねいに包めるし、包んだそれを大事にできる。
実際、ひとつに絞ると、筆はすらすら進んだ。
ひとつに絞れば、その時々の細かなようすも思い出せるし、言葉や文に余裕が生まれた。
エピソードがひとつだけなので、無理にまとめる必要もない。
勇気を出して、絞ってよかった。
極端なことを言えば、最後にひとつに絞れるのなら、もとの題材はなんでもいいのかもしれない。
たとえば、思いつく単語をいくつも箱に入れた、「言葉のくじ引き」でも作ってみる。
箱の中からひとつ引いて、出た言葉を「題材」とする。
「鉛筆」
「テーブル」
「天気予報」
「めがね」
「足跡」
「肌寒さ」
「コップ」
この中のひとつで、何か書く。
最初は、ひとつの単語から、あらゆるエピソードが浮かんでくるだろう。
たとえば「コップ」について書くのなら、まず自分の持っているコップのことを考えるはずだ。
お気に入りのマリメッコのマグ。
氷の映えるガラスのコップ。
夫とお揃いのペアカップ。
それぞれに思い出が詰まっているので、それについて書こうかな、と考える。
あるいは、コップから連想する飲み物に意識を広げる。
いつも飲むコーヒー。
息子の好きなホットミルク。
小さなグラスについだワイン。
それらの飲み物を味わう時間や、好きなカフェのドリンクについて書くのもいい。
そうやってエピソードをいっぱい広げる。
いくつも考えて、記憶を辿り、とりあえず書いてみたりする。
そうやって散々広げまくったあと、「一番書きたいもの」に絞るのだ。
つまり、広げまくることは、探ることなのだ。
自分がいちばん書きたいものは何なのか。
どれなら、筆が進むのか。
自分の心に問いかけながら、頭も手も右往左往させて、「しっくりくる」を探している。
もちろん、最初から「これについて書く!」とポイントを打てることもあるし、それが効率もいいんだろうけど。
私はこの、広げまくっているときもけっこう好きだ。
広げるあいだは、遠回りをしているようで無駄に感じるときもあるし、うまく絞れなくて、やきもきするときもあるけれど。
たったひとつの単語から、いくつもエピソードが思いつけるなんて、贅沢だ。
たくさんエピソードを並べていると、「人生いろいろあったんだな」と実感できて、なんだか楽しい。
「書くことがない」は、起こらない。
それは、広げすぎなだけかもしれない。
小さく狭く絞って書けば、「題材」はいくらでも、転がっているのだ。