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「言葉を速く打ち返す」ということ。

「言葉」は、速ければ速いほど良い。
そう思っていた。

相手の質問に、すばやく返す。
言葉のボールを、すぐに投げ返す。
テンポのいいやりとり。
それができない人は、口下手。

でも、本当にそうだろうか?

速い言葉は、「強さ」をまとっているかのように見える。
でも、その強さはホンモノか?
それは今、必要な強さなのか?

自分が放ったその言葉は、ほんとうにそのスピードで返してよかったのだろうか。



考えるきっかけをくれたのは、一冊の本だ。
荒井裕樹さんの『まとまらない言葉を生きる』。


「言葉」の力について、語られるエピソードは、どれも自分のすぐそばのことだ。

「黙らせる圧力」のある強い言葉が、SNSなどで頻繁に撒き散らされる今、「言葉は壊されている」と著者は語る。


◇◇◇

この本を読んで、思い出したことがある。
同僚のA先生と、ひとりの子どもの話である。


同僚のA先生は、とてもゆっくりな人だった。
となりのクラスだったので、よく話した。

A先生は、喋りも思考も動きも、全部がすごくゆったりしていた。
だから、優しくおっとりした雰囲気が子どもを安心させる反面、やんちゃな児童には言い負かされることがたびたびあった。

教師は、子どもを「言い負かす」のが仕事ではない。
ただ、学級経営をしていると、発言力のある子に、バシッと言い返さなければならない場面がどうしても出てくる。


当時A先生のクラスには、えらくスピードのある「言葉のボール」を投げてくる子がいた。
そりゃあもう、すごいスピードだった。

A先生がひとつ問いかけると、瞬時に「でもそれってー!」と返す。
それを聞いたA先生が、しばらく考え、また答えると、「えー!?でもさあ!」と返す。

試している。
その子とA先生のやりとりを見たわたしは、すぐにそう感じた。
その子は、探っているのだ。
どこまで言っても、大丈夫なのか。
どこまで言うと、A先生は打ち返してこなくなるのか。

A先生は、手を変え品を変え、その子の球を打ち返した。
それでも、すぐには打ち返せないことが続くと、だんだんその子の発言が、クラスの中で力を持つようになった。

そしてそれは、クラス全体の空気を変えてゆく。
A先生が授業を進めるとき、その子が何をどう発言するかによって、授業の進み方が変わってくるようになった。
A先生はそれを、とても悩んでいた。

わたしが、もっとうまく言い返せていれば。

A先生はいつも、そんなことを嘆いていた。


◇◇◇


翌年、わたしがそのクラスの担任になった。

最初の日。
例の子が、わたしの話に割り込んできた。
A先生から話は聞いていたので、わたしはすぐに球を打ち返した。

わたしの会話のキャッチボールのスピードは、そんなに遅くない。
その子は、きょとんとして、それから「ほう」と言った顔になり、「分かりましたー」と言って、あっさりと座り直した。

__正直に言う。
わたしはそのとき、「勝った」と思ってしまった。

その子よりも、わたしの方が発言力があると、クラスに示しておきたかった。
あなたの思うようにはならないと、暗に言っておきたかった。

すばやい言葉には、素早く打ち返す。
それなら、負けないよ。
速さには自信がある。

当時は、それでうまくいったと思っていたし、クラス経営もその子との関係も、おおむね問題なかった。



でも今、ようやく。
ほんとうに、ようやく。
あのときのことを、反省している。


「言葉を速く打ち返す」って、そんなに偉いのか?

そんなワケない。
そんなワケ、ないのに。

わたしは、すっかり勘違いしていた。
相手の言葉に、すばやく返すこと「だけ」が、正解ではないのだ。



今日、とにかく速い返しやうまい返しが求められる。
SNSで、LINEで、多くの言葉が、ものすごいスピードで飛び交っている。

その言葉たちは、鋭利な牙を持っていたり、安っぽい被り物をしたりしている。
受け取った相手や、それを見かけた相手すら、ことごとく傷つけるようなその鋭い言葉たちは、その重さに見合わないスピードで、びゅんびゅんと撒き散らされている。


そんな社会のど真ん中で、生きる子どもたち。

彼らは、言葉の重さとスピードをよく理解せず、ただ大人のマネをして、ボールを投げつける。
そんなボールに、わたしまで素早く投げ返して、どうすんだよ。


それならA先生みたいに、ゆっくり返す方が良かったんじゃないか。
それは、ゆっくりで、たどたどしくて、まとまりのない言葉だけど。
気の利いたことは言えないし、まわりに求められるスピードには、全然足らないかもしれないけれど。

じっくり考えて、言葉を選んで、きちんと誠心誠意返された言葉。
それができるA先生の方が、ずっと子どものためを思っていたのではないか。

わたしはずっと、勘違いしていたのだ。
言葉のやりとりのことも、A先生のことも。


◇◇◇

『まとまらない言葉を生きる』の荒井さんは、言葉の「降り積もる」性質について語っている。

言葉には「降り積もる」という性質がある。放たれた言葉は、個人の中にも、社会の中にも降り積もる。そうした言葉の蓄積が、ぼくたちの価値観の基を作っていく。

同書、p.26



言葉が降り積もるなら、どんな言葉が詰まった社会を、次世代に引き継ぎたいか。
著者は、そう問いかける。


わたしはあの日、素早い言葉で黙らせてしまったあの子に、「速く打ち返すことが偉い」と、身をもって教えてしまった。
もっと言うと、そのとき返した言葉は、ほんとうに中身のないことだった。

それを今さら、恥じている。
言葉はもっと、重かった。
慎重に、ていねいに、扱うべきだったのだ。


思えば、「言葉」で失敗することが多かった。
この本を読んでいると、痛いくらいにそれらを思い出す。

忘れたかったのに。
いや、忘れてはならないのだ。

「言葉」はいつもすぐ近くにいて、絶えずこの世に降り続けている。


それなら、「言葉」について、考えなければ。
もっともっも、考えなければ。


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