『母という病』を読んで、おもうこと。
読んでいたら、気が滅入った。
岡田尊司の『母という病』。
引用したamazonの表紙には書かれていないが。
わたしの買った本のカバーには、こんなことが書いてある。
「これはわたしのことだ」とおもった。
書店で、釘付けになる。
「母親に苦しめられる人たち」という言葉が、胸に突き刺さって離れない。
と同時に、じぶんもその「母親」になっていることに、はたと気がつく。
わたしは、「呪い」をかけられたかもしれないし、これから「呪い」をかけるのかもしれない。
そうおもうと、こわくてこわくて。
でも、読まないわけにはいかないとおもい、すぐに手にとって、レジにならんだ。
◇◇◇
母親との関係は、心理的な面にかぎらず、生理的、身体的なものになるという。
それは、「出産」という行為が、生物的なものだからだ。
母と子の絆はそれだけ大きな意味を持ち、だからこそ、子どもの人生を、大きく左右する。
子どもにとって、幼いときが満ち足りた安心安全の日々だったかどうか。
それにより、いまの母親との関係は決まってくるという。
何らかの理由で、愛されず、満たされない幼少期をおくってきた人ほど、「親に愛されたい、認められたい」というこだわりは強い。
この「こだわり」の仕方はさまざまで。
愛されなかった復讐を行動で示そうとする直接的な子もいれば、多くは、自分を否定し傷つけることで、間接的に親に痛い思いをさせようとする子どもが多いそうだ。
それゆえ、「母という病」を抱えたひとは、自己否定が強く、完璧主義になりやすい。
たとえ今、母親がそばにいなくても、心のどこかにいつも母親の存在があり、「頑張って認めてもらいたい」、「頑張っても自分はダメだ」と、悩み続けることになる。
もっとも大切にされたい存在であった「母親」に、大切にされていない。
すると、「安心感」が持てなくなる。
心の根底にある「基本的安心感」。
周囲の人は味方だと信じる「基本的信頼感」。
このふたつが損なわれると、子どもはネガティブな気持ちに陥りやすく、だれにも助けを求められず、最後には自分を貶めてしまう。
最悪の場合は、自死にいたる。
__というようなことを読みながら。
「いやまあ‥、ここまで追い詰められてはいないけど、でも分かる気もする」と考える。
わたしには、ジョン・レノンたちのような、壮絶な過去はない。
母親に、愛されなかったとは決しておもわない。
でも、いちばん分かってほしい時期に、いちばん認めてほしかったことを、否定された。
あの記憶。
あれだ、あの頃だ。
あの頃の母との関係が、いまの「わたし」を作っている。
そうすると、すべて納得できる。
本書には、「母という病」を抱えたひとは、「自己否定が強いのに、自己愛も強い」と書いてあった。
まさに、わたしだ。
「どうせわたしなんて」という気持ちと、「なによりもわたしが大切にされたい」という気持ち。
矛盾した気持ちが、いつもせめぎあっている。
じゃあ、どうすればいいのか。
こんなわたしのまま、35年も生きてきたわたしは、どうすれば。
本を読めば読むほど、記憶が次々によみがえり、追い詰められて、読むのが辛くなってきた。
しかたなく、一旦読むのを止めた。
数週間経ち、ふたたび手に取る。
とりあえず、うっすらと流し読みしよう。
そう決めて、真正面から向き合わないようにしながら、読み続けた。
弱い。
でも、そうしないと、読めなかった。
◇◇◇
本書の7章のうち、6章までは「母という病」がどういうものなのか、書かれている。
先人や、具体的な事例をあげながら。
それはそれは、壮絶な事例だ。
読むたびに、「ここまでじゃないけどさ、でもさ」と頭のなかで、何度もつぶやく。
そして、7章にようやく「母という病の克服」が来る。
克服方法のひとつ。
「否定的な体験を吐き出す」。
やはりこれは、避けて通れないのだと思い知った。
「母という病」を抱えた人は、ずっと我慢してきた人だ。
言いたいことがあっても、母の顔色をうかがって言えなかった。
やりたいことがあったのに、母の言う通りにした。
母と距離を置きたかったけど、「友達」みたいな関係を望まれた。
ありのままの自分を、そのまま認めて抱きしめてほしかっただけなのに。
そういう思いを、どこかに吐き出す。
書いて吐き出してもいいし、母親に直接叩きつけたっていい。
母側は「あんなに良い子だったのに」とおどろくかもしれないが、長い目で見ればそれでいいのだ。
わたしも最近、ようやく自分の気持ちが言えるようになってきた。
ずっと言えなかった本音、過去の嫌だった思い出を、何気なく口にする。
「あのとき、こうしてほしかった」と言ってみる。
すると、言われた母は、たいてい忘れている。
何気ないひとことだったということが判明して、拍子抜けする。
「あら、そうだったの、ごめんね」なんて謝られる。
すると、苛立ちよりも、心がすぅっとする。
「子どもは親を許したいのだ」と、本の中に書いてあった。
だからか。
いまさら、母に怒っているわけじゃない。
ただ、自分のために、モヤモヤした気持ちを解決しておきたいだけだ。
だから、「ごめんね」と言われると、抱えていた荷物がひとつこぼれ落ちる。
ほかの克服方法で印象的だったのは、「理想の自分にとらわれない」。
完璧主義にならないよう、自分で自分のそのまんまを認めてやるのだ。
あと、「ネガティブに反応しない」も大切だ。
「母という病」を抱えた人は、ネガティブなことばかり口にするらしい。
悲しいことだが、わたしも、そうだ。
周囲の人は敵に見えるし、世の中はあまり明るくないとおもう。
でも、それも、やめる。
母親がネガティブなことばかり口にすると、子どももそうなる。
息子のために、やめなければ。
◇◇◇
まだまだ、本書には、目をつむりたくなるような「母という病」が書かれている。
でも、このくらいにしよう。
子どもは、母親が考えているよりも、ずっと母のことを思っている。
母親のことが大好きで、母親は絶対で、母親がいちばん。
その純粋な気持ちに対して、母親がどう反応するか。
それが、子どもの将来をつくるのだという。
それを知ると、母である自身の言動に、心底自信が持てなくなる。
ただ、「母」がすべて悪いのではないのだ。
「母」もまた、「母」に満たされなかった。
「母という病」は、連鎖するのだ。
とりあえず、わたしができることはなんだろう。
ひとつは、自分の気持ちを「母」に言う。
年に一回しか会わないからこそ。
一生、言えないこともあるだろうけど、それは「note」にでも吐き出してしまおう。
もうひとつは、息子のために。
できることは、本書でたくさん見つかった。
「母性」と完璧主義は、相対するという。
おおらかで、あたたかく、包み込むやわらかさを持って。
でも、理想を追い求めすぎないで。
難しい。
でも、「母という病」の連鎖を、すこしでも断ち切れる「母」を目指して。