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ツイッターでもこの佐伯衣梨という名前を使っていた。
変えたい衝動が起こって変えた。
どうせ一人としかやり取りをしてなくて、そのひとりともやり取りを諦めてしまえば、もうその名前に意味なんかない。
色々候補を考えて、これにしようとユーザー名を変更したけど表示するとしっくりこない。
鉱物の名前でもう一つ候補にしてあったのを表示させたらこっちだなと思ったのでそっちにした。

「なんか」は大事だ。言語化できなくていい。論理的にならなくていい。後で「ああいう理由だったんだな」って分かることがあってもいいし、分かんなくても「あのときこれは違うと思った」って事だけちゃんと分かればそれでいい。

自分のことを無視されると悲しい。あったのになかった事にされると傷つく。
それを分からない人となんか関わりたくない。

ツイッターで短歌の初句を提供してくださってるアカウントがあった。
引用したツイートをすると、必ずいいねとその方のアカウントにRTをして下さった。

ある日自分の短歌がRTされないことがあった。
RTしてきただけると自分のアカウントで短歌のタグつけて投稿するものよりもアクセス数は増えるし、いいねもしてもらえる確率が上がるので、アクセスもいいねも増えるとやっぱり嬉しいので
DMで伝えた。

その方は謝って、RTしてくださった。
そしてその方のプロフィールに「もしRTし忘れてたら連絡下さい」と付け加えて下さった。

嬉しかった。私のDMを「連絡してくれてありがとう、伝えてくれてありがとう」と受け止めてくださったこと。
自分のDMを受けたことがきっかけでプロフィールにそう書いてくださった事。
自分がしたことに影響を受けてくださったこと。

ネットで、お会いしたことのない方に言葉を書いて、無視されること、自分の書いたことが何もなかったかのようにコメント、その後の記事が綴られていくこと。平気にはならない。
感情が乱れないよう、傷つかないよう予防線を張る、プロテクターをつける、そんなこと本当はしたくない。でも無防備ではきつい。

最近、「 (_ _) 」の絵文字を使うことが増えていた。
「 (•‿•) 」の絵文字が穏やかに笑ってる感じがして好んでいた。
だけどコメントへの無反応が続くと無意識に姿勢を低くしなきゃって考え出す。
正直に、だったり、率直にだったり、は求められてない。
私が何を思おうが、その記事に書かれていたことに気持ちを動かそうが、その気持ちを伝えてみたいと思おうが、しらんこっちゃないのかと思うと虚しくなる。

もうほんとうにわからない。この文章の感じなら、こういう内容を書く方なら無視しないんじゃないか、コメント返してくださるんじゃないかと思ってもこっそり覗きに行くと、私への返信、スキも何も返ってこないまま、新しい記事がアッブされているのを見る。

noteへ来てコメント返しより自分の書きたい記事を優先させたいこともあるだろう、noteより仕事、家事、育児を優先したい、しなきゃならないこともあるだろう。
一週間くらいは返事が来るかもしれないと待つ。それを過ぎたら待つのは終わり。フォロー外して、スキを外して(スキした記事を読み返すとき、見たくなくても目に入るのて)さようなら。

来るんだか来ないんだかわかんないものを待ってるのきつい。
三日目くらいでもう来ないか、やっぱり来ないよ、そうだよ来ないよ、って来るかもしれない期待を消そうと意識する。
来るはずだなんて信じたらダメージ食らう。ダメージ受けたくない。

ずっとただ読者でいて話しかけるつもりはなかったけど
なんのきっかけで話しかけたくなりコメント入れて、やり取りをするようになった事はある。何回も。

でも入れなきゃ分からない。やり取りは一回で終わるのか、続いていくようになるのかは。
一回で終わるから駄目なんてことはなく、楽しく話せたな、って感じられたならそれでいい。

入れなきゃ分からない。相手が返事をくれるかどうか。
だけどあまりにも打率が悪かった、このnoteという場所は。

今までも無視されたり削除されたりしたことはある。
だけど今まではこの人はこうだから無視すんだろなって想像がついたから「けっっっ😡😡😡」って気持ちでいれば終わらせればよかった。
でも削除されたのを見たとき「うっっ。。」ってなるのはやめられない。

コメントを入れて無視されたらフォローやスキを外して接触を断つなんて、それまで友達だったのに告ったら友達でもいられなくなるみたいだ。何もいわなければ友達でいられたのに、みたいな。

Twitterって結構現実的。
夜のゴールデンタイムに投稿しないと、見てもらいにくい。
フォロイーが2桁の私でもTLをスワイプしてその日のツイートを全部見るなんて無理、無理、無理、無理、もーしも君がひとりならーー、だし!
だけど好きな時間に投稿したい、見てはもらいたいけどツイートしたいときとツイートしたい。

名曲喫茶の流れを感じる喫茶店に行ったことがある。
体質に合わなかった。

入り口に「ケータイ禁止」「おしゃべり禁止」の張り紙。
カフェオレを頼んだ。

本はたくさん置いてあって、でもすごくむつかしそうな哲学の専門書ばかり。店内は荘厳にベートーヴェンが流れていてリラックスできない。
カフェオレは甘くてこれはもしかしてミルクだけじゃなく生クリームも入ってたりするのかなと思い聞いてみた。
怪訝な顔をされた。
質問もだめなんだ。。

隣のジェラート屋さんに逃げる。
もう顔見知りのお店。お喋りしてから帰る。

くつろげなければ私にとってそこは喫茶店じゃない。

ファミレスで誰か知らない人とおしゃべりできる筈はない。
あそこは1人で行った人が1人で過ごす場所、一緒に行った人同士で過ごす場所。
知らない人同士がおしゃべりする確率なんて1%以下だろう。
私がnoteでやってるのはそんなことかもしれない。

小学校の掃除は縦割りだった。1年生か6年生まで混ざったグループで掃除する。
そのグループがそんな居心地よくなくても、私は次の新しいグループになることを恐れた。今より楽しいグループになるって信じられなかった。今よりひどくなるなら変わらないほうがいいと思った。人といて楽しいとかよく分からなかった。

やっぱり毎日投稿したいという人と関わるのはやめる。
どうしてそんなことしたいと思うのか分からないし。その人に関してそれをわかってみたいという気持ちも雲散霧消。
そんなに毎日ネタになるようなことがあるわけない。
ツイッターてつぶやくとのは違うし、長い文章を書くのは。
結局おんなじようなものばっか書いちゃうし私も。
それって結局話をその話を聞いてくれる人がいないからやってることで、寂しいから満たされないからやってる事なのに人を蔑ろにする人ってほんとわかんないし、分かりたくもない。

根本宗子さんが見た後、自分のことを語りたくなるようなお芝居をしたいみたいな事を言ってた。
何かを触発されるもの、それをきっかけに記憶を思い出すもの、私にもこんなことあったと語りたくなるもの、分かる。。と共感するもの。
語りだす。
でも。
そんなことはコメント欄では求められてない、か。
考える。元記事から逸れた話になってないか、文章が長くなってないか、ここはカットしよう、とか。
いい人になろうとする。受け入れられることを考えて避けられる事を避けたくて自分を小さくする。
わたしがわたしでいることなんて。いらないんでしょ。めいわくかけなけれはわらってればともだちでいてくれる、か。。
そんなことを。しばられている。

こんなことは聞いてくれないなんて微塵も思わずにそのまま話したいまま話したい。話したい人に話したい。
信頼したい。


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