文章よ、長くあれ。
文章を読むのが好きだ。
とりわけ長い文章を読むのが好きだ。
本なら分厚いほど心が躍る。普段は箸より重いものを持たないように心掛けている私でも、本屋ではすすんで分厚い本を手に取って、重たい袋を抱えてニコニコしながら帰る。
ここで「京極夏彦でも読んでろよ」と思った方、安心してほしい。当方、京極先生の大ファンである。表紙のデザインが好きだから分冊版だけど。
最近はよくnoteで人様の日記を読んでいるけれど、それも長ければ長いほどいい。もちろん、例えば私の文章みたいに、ただただだらだらしている冗長なものは良くないが、スクロールバーの短さと反比例してバイブスがブチアガる。
どうして長い文章をこよなく愛しているかと言えば、読み応えとかトロフィー的な意味合いもあるけれど、単純に文章を読むことが好きだからだ。
単純に書きすぎてどこぞの政治家構文みたいになってしまったけれど、そもそも「文章を読む」という行為は尊い。
ただ、こうした「長い文章を時間をかけて読むのが好き」という感覚は、前時代的だと我ながら思う。
こんなこと昔から言われているけれど、今は物凄いスピードで時間が流れている。みんな時間的な余裕が無い。
だから、のっけからサビみたいな展開もBPMも早い曲が流行るし、サブスクで映画を倍速で見る人もいる。その楽しみ方自体は個人の自由だから否定しない。
文章に限っていうなら、Twitterの隆盛。それまで猛威を奮っていたブログサービスは鳴りを潜め、140字でお手軽に自分の日々を投稿し、他人の日常を享受できるというサービスは、どんどん加速していく時代のスピードに合っていたのかもしれない。
(いまこういうnoteのような長文向きプラットフォームが流行ったり、Twitterが文字数制限をとっぱらったりしたのは、140字じゃ足りねーよ!って流れがきているのかなと思う。流行は循環する)
あとLINEもそう。
メールよりもタイムリーだし、それゆえ短文向きで率直に意思疎通が図れる。というか、LINEだと余計に長文が敬遠される傾向にあると思う。たしかに長文好きの私も、レシートみたいなメッセージがくると辟易してしまう。それはまた別の問題だと思うけど。
娯楽にもコミュニケーションにもタイムパフォーマンスが求められる、どっかでスタンド使いがバトってんのかと錯覚するくらい時間が速く流れるこの時代に、「1日使って本を読む」とか「長いnoteをじっくり読む」みたいな行為は、前時代的すぎてかえって贅沢なことなのかもしれない。
長い文章を読むということは、それだけ文章に使う時間が長くなる。
その文章が終わるまで、読み手はその世界から離れることができない。
私たちが小説世界に、誰かの日常に、誰かの頭の中に浸っている間、もっと言うとあなたが私の文章を読んでいるこの間にも、現実ではものすごいスピードで何かが起こったり終わったりしている。
それを置いて、フィクションの世界や、存在すら不確かな誰かの日記に限られた時間を使うというのは、めちゃくちゃ贅沢な時間の使い方だと思う。
(映画館で映画を観ることに拘る人がいるのもそういう理屈じゃないかしら)
だからこそ、文章を読むという行為は尊い。
24時間という、この世界で唯一平等なタイムリミットの中で、「他人の頭の中を覗き見る」という一見無駄な行為は、猛スピードで進む日常の中にある休憩時間だ。私が長文を見ると散歩中の犬くらい大喜びする理由はここにある。
長文に恐縮する必要は無い。むしろあなたの文章はもっと短いくらいなのでもっと書いた方がいいっていつも思う。文章よ長くあれ。
以上、先ほど江戸川乱歩の短編集をイッキ読みしてこんな時間になった私の所感でした。ちゃんちゃん。
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