ちょっと生々しい『母性』の話を書く
こんにちは。鳴海 碧(なるうみ・あお)です。
本日は短編を小休止して、私自身のおどろおどろしい話を書きます。
途中で読むのが嫌になる方もおられると思いますので、どうぞご無理のない範囲でお付き合いください。
先日、『短編Ⅶ with』の中で、「動物の親は、追い詰められると子どもを食べてしまう」というエピソードを書きました。
私自身、「このエピソードをここに嵌め込むのはどうなんだろう」と躊躇しつつ、「でも、このエピソードは避けられない」と考えて書きました。
そして、書き終わってから、「なんでこんなエピソードを考えたんかな」と、自分の内面を探っていて…ある実体験、あまり思い出さないようにしていた実体験に行き当たりました。
それは、「私が10歳のとき、私の母が、私の目の前で、私の末弟と無理心中を図った(ただし未遂)」という実体験でした。
当時の母は…というか、以前から母はメンヘラ体質で、些細なことでヒステリーを起こす人でした。同居する姑との折り合いが大変悪く、その愚痴を延々と私に垂れ流し続ける人でした。
その日、祖母と父は家におらず、母と、私と、私の二人の弟がいました。恐らく昼食の時間だったのでしょう、4人は台所に集結していました。
そこで、上の弟(当時8歳)がなにかの理由で癇癪をおこして、「お母さんは俺がおらんほうがええと思っとるんだろ!」と泣き叫び、それにヒステリーを起こした母が、「そんなに言うんだったら、お母さんはもう死ぬ!」と泣き叫び、炊事場から包丁を持ち出したのです。
そして、一体なんのつもりか、いきなり何の関係もない末弟(当時4歳)を椅子から引きずり下ろし、抱え込んで床にうずくまると、彼の首に包丁を突き立てようとしたのです。
驚いた末弟は、必死で身をよじって母の腕から逃げ出し、「お母さんが死ぬ!お母さんが死ぬ!」と泣き叫びながら、家を飛び出していきました。私は慌てて、そのあとを追いました。
末弟は近所のいろんな家の玄関や裏口に飛び込んでは、「助けて!お母さんが死ぬ!」と泣き叫んで、私も「待って!ノリくん、待って!」と泣き叫びながら追いかけました。そして、あるおうちの庭で、やっと末弟を捕まえて、二人で抱き合って、声を上げて泣きました。
私はそのとき、本当に、本当に、心の底から思いました。
「死ぬんなら一人で死んでくれ。さっさと、一人で死んでくれ」と。
以前から母は私に、「おばあちゃんのことが辛すぎて、あんたらを連れて海岸に行っては、『この子らと一緒に海に飛び込んで死のう』と思った」と言っていました。
その話をするときの母は、自分に酔ってウットリとしていました。まるで子どもを道連れに死ぬことが、子どもを想う母親の愛情の証明であるかのように。
私と末弟は抱き合って泣いて、その家の住人からひどく心配されながらも、なんとか立ち上がって、手をつないで家に帰りました。
その3年後。7歳の末弟は、突然倒れて亡くなりました。
目を真っ赤にした母は、泣いている私をにらみつけ、「あんたにお母さんの気持ちは絶対にわからん。あんたにわかるわけがない」と何度も何度もなじりました。まるで、娘の私は母の気持ちを全て理解すべきで、それなのに理解できていない私は、娘として失格だと言うかのように。
自分は、最愛の弟を突然亡くして錯乱している13歳の娘の気持ちなど、全く理解しようとしないのに。
母親に殺されかけたという記憶を抱えたまま、死んでしまった末弟。私は彼を、溺愛していました。愛情の薄い家族の中で、彼だけが私の救いでした。私が愛情というものに絶望せず、今、結婚して息子三人を得て、幸せに暮らせているのは、末弟との間には確かに愛情があったと、ずっと信じて来られたからだと思います。
その弟を殺そうとした母。自分が死にたいときには、子どもを道連れにして当然だと考えた母。母は自分のことを、「子どもに対して愛情深い母親だった」と主張します。でも私は、母が主張する『愛情』というものを、絶対に認めたくありません。
お母さんも大変だったんだよ、それくらい追い詰められていたんだよ、母親は子どもを残しては死ねないもんだよ、どうか許してあげて…というご意見もあるかと思います。
…でも私は言いたい。
そして今、自分に言い聞かせながら、息子たちと対峙している。
そんなんが『愛情』なわけないやろ。
ただの執着と依存と支配やろ。
死にたいんだったら、一人で死ね。