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【連載】ベトナム戦争とジャーナリストたち①

 「君がこれまでに最も印象に残った本は?」
 昨年、新聞社の面接を受けているとたまにこんな質問をされた。その時に決まって答えていたのが、ベトナム戦争を取材した日本のジャーナリストたちだった。
 ベトナム戦争といわれても、私くらいの世代にはあまり馴染みがないかもしれない。日本が戦後大きな発展を遂げようとする中、アジアの小国で吹き荒れた対共産主義や民族解放の抗争はどこか他人事のように感じる人もいるだろう。しかし、日本のジャーナリストたちも当時ベトナムへ行き、熱帯のジャングルを駆け回った。日本の大手報道機関がベトナムに拠点を置いたのはアメリカが北爆を開始した直後の1964年末。まずNHKと毎日新聞が同年秋に支局を開設し、11月に共同通信、12月初めに読売新聞、そして12月末に朝日新聞がきた。フリーのジャーナリストはもっと前から現地入りしていた。遠くで響く砲弾の声、夜中におどろおどろしく響くベトコンの太鼓の音、ちぎれた死体、目を背けたくなるような拷問の数々……。彼らは怒りと悲しみを写真や記事に込めて世界に訴えた。命を懸けたそれらの取材に何度胸を打たれ、辛い時にどれほど励まされただろう。
 ならばあの戦争が終結して50年が経とうとする今、血と汗と涙の滲んだ彼らのルポから、その輝きに迫ってみよう。というわけで、連載「ベトナム戦争とジャーナリストたち」始めます。第1回目は、読売新聞サイゴン特派員だった日野啓三の『ベトナム報道』から。(随時更新予定)


自らの情報源を頼りにベトナム戦争を報じた記者――日野啓三


日野啓三『ベトナム報道』(初刊は1966年11月)

 「B52が非武装地帯を爆撃したぜ。すぐ解説を頼む」
 日野啓三の『ベトナム報道』は、外報部デスクとのこんなやりとりから始まる。1964年。ついにアメリカ軍がジュネーブ協定で設置された非武装地帯(DMZ)を越えて北爆を開始した時だ。同僚から「またドサ廻りか」と同情されつつ、彼はサイゴン入りした。
 日野のルポは他のジャーナリストと比べて一風変わっている。そこには開高健がアメリカ軍の作戦に同行中、ベトコンに急襲され死を覚悟するといったような切迫感はない。
 しかし、逆に言えば日野啓三にしかないものがある。彼はベトナム取材を通して絶えず自身の中で、「日本の国際報道はどうあるべきか?」と問い続けていた。
 本の中では面白いエピソードが紹介されている。恐らく数多くの日本人特派員なら悩むであろう葛藤を痛快に乗り越えていく名場面である。
 サイゴン到着翌日、日野は読売新聞東京本社からの紹介状を携えて、AP通信サイゴン支局のドアを叩いた。紹介状とは、「AP通信は特約関係にある読売新聞に必要な時は随時情報を共有してほしい」という東京本社による計らいだ。海外通信社の記者たちが打った電報を日本語に訳して記事に載せるということはよくあった話だ。しかし、AP通信の支局長は日野を足蹴にした。彼の差し出した封筒を開けることもなく机の横に放り出し、「あれをみてもいいよ」と顎でしゃくって壁の電文記事を示した。その時のことを日野はこう振り返る。

 「すでにAPの記者たちが打った電報のカスを、まるで残飯を恵んでもらうような調子で拝読させてもらう自分の姿が、私には全然気に入らなかった。紹介状の封筒をあけようともしなかった支局長の態度も、私の神経にさわった。私は『これからよろしく頼む』というような意味のことを、ぼそぼそといって外に出ながら、心の中で固く決心した――彼らの世話になんかなるものか、おれはおれの情報源と判断で対等に仕事をしてみせる」(日野啓三『ベトナム報道』から)

 「自分の足と目で現地の情勢を掴む。それこそ記者がするべき報道だ」と口で言うのは簡単だ。けれども日野は闇をまさぐるような日々にもがきながら、自分の手でベトナムの戦争とは一体何なのかを探り当てていく。その姿に私は魅了された。彼が共同通信の林雄一郎記者と一緒に、チャン・バン・フォン首相が軍事クーデターで倒れたスクープを打った場面には、私も心の中で同じように快哉を叫んだ。
 他にも、この本には当時ベトナムの地で共に過ごしたジャーナリストたちとの興味深いエピソードが細かく描かれている。彼の本を読めば、戦争で混乱を極める市街地を駆け回る特派員の息づかいを肌で感じることができるだろう。

日本にとってのベトナム報道――「自由」を手にした記者たち


1967年サイゴン市チョロン


 ベトナム戦争の報道が日本にとってどのような意味を持つか。それは戦後ようやく陸軍からもGHQからも検閲されることなく、記者個人が自由な報道ができた初めての戦争だった。ただし、この報道の自由にはアメリカ軍側の事情もあった。当時、どの国の記者でも従軍したいと言えばアメリカはすんなりと承諾したし、不都合なところを写真に収めるなといった規制も少なかったことは、いろいろな記者が手記で振り返っている通りだ。皮肉なことに、それが原因でアメリカ国内でも反戦運動が巻き起こったために、その後の湾岸戦争から軍は報道機関に対する規制を強めた。そういった意味では、ベトナム戦争は日本の記者にとっても自由に取材ができた最後の戦争と言えるだろう。
 もちろんそこには必ず命の危険がつきまとった。いつベトコンやアメリカ軍の銃弾にあたるか、地雷を踏むか、市街地の爆弾テロに巻き込まれるか。そんな緊張感を常に抱えながら取材していた。それを本で知るたびに、「なぜ彼らは命の危険を冒してまで、これほど取材ができたのか」と思う。彼らに共通しているのは、「どんな大義名分であれ誰かを殺すなんておかしい」「戦争に勝とうが負けようがこんな破壊と虐殺を続けるのは間違いだ」という徹底した反戦への強い思いがあることだ。恐らく、いやきっと、私がベトナム戦争を取材したジャーナリストたちに胸を打たれるのはこういった彼らの姿勢だろう。
 当時の日本人従軍記者たちの意識の中には、彼ら自身の戦争体験があったと日野はいう。日野の中で疼く戦争への嫌悪も、彼が子供時代に「釜山の埠頭で震える夜を過ごし、博多の倉庫でムシロにくるまって寝た引き揚げの時の屈辱の記憶」に裏打ちされていた。
 日野は太平洋戦争で「日本が負けてよかった」と振り返る。それによって「八紘一宇的な誇大な使命感を打ち砕かれ、かえって自由になった」と。その自由とは、「過度の使命感からの自由、恐怖すべきものを素直に恐怖する自由、核戦争を賭けてまでも押し通さねばならぬようなメンツからの自由」である。だからこそ、彼はベトナム戦争の正体を見極めることができた。アメリカの欺瞞、農民の悲鳴と叫び、腐敗に抗うベトナム人……。彼の残した歴史の記録は、何十年経っても色褪せることがない。(工藤優人)

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