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【Zatsu】世の中をひっくり返すもの8(後編)

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前回の3行まとめ
教皇ファッションチェック
今日の左手 明日の右手
そのウソって、本当ですか?



無限増殖するリスクヘッジ

人生は選択の連続だというけれど、活動的に生きていくとしたらどうしたって判断することは避けられない。でも、これまで見てきたとおり、世の中に「絶対」はないんだから、いまのところ「真実」っぽいものに当たりをつけて選択するしかないよね。

レンタカーでドライブを楽しんだ帰り。そろそろ返却の時間が迫っている。借りた店舗へ戻りたいんだけれど、分岐点の標識にはこう書いてある。
右:A街
左:B街
借りた店舗はA街なので、右の道を選択する。でも、万が一ちがったらまたここまで戻ってこなくちゃならない。このタイムロスは痛い。

こういう不確実性に対応するための手段として「保険」がある。事前にオプション料金を払ってくれれば、B街に乗り捨ててもいいですよ、という契約、これも一種の保険。

生命保険や損害保険に限らず、「不確実性ゆえに発生しうる、自分にとっての不都合な未来」のマイナス効果を打ち消してくれる手段を保険を呼ぶならば、我々のまわりは保険だらけじゃない? 失言の多い人や仕事でミスの多い人ほど予防線を張ってくるもんね😄

世の中、VUCAの時代だといわれて久しい。明確に将来を見通せる人なんていないんだ。となると、不確実性もバンバン跳ね上がるわけで、それに対応していこうと、なんでもかんでも保険を掛けるようになる。
信じていたものがフェイクだった場合の保険。
想定外の事象が起きた場合の保険。
自分の至らなさをカバーしてくれる保険。

でも、それってキリがないよね。

情報の取扱いにおいて「思っていたのと違った!」というエラー(誤判断)の発生自体は避けられない。だから、保険を掛けることでその全責任を負うことを免れ、次善の策が打てるようにしよう、という目論見。

いうなれば、工場の作業工程と同じだ いたるところにチェック装置を取り付け、いちいちストップするのがたまにキズだけど、チェックを厳しくすることで不良品の発見を促進し、排除したり、工程の誤りを正したりできる。

たくさんの保険を掛けることで、保険料はかかるけれど、どこで誤認識が発生しても、最小限の被害でリカバリできるようにする。同じことだ。

でも――それってどこまでやれば十分なんだろうか。

無垢の情報、純度の高い天然情報なんて、危なっかしくて、誰も手を伸ばさない。あれこれ添加物たっぷりの保険漬けになった加工品でないと、安心して使えないんだ。
しかし、それによる情報処理効率の低下は著しい。もともとは、情報を使って何かやりたかったはずなんだけど、いつのまにか情報をいじくりまわすことが目的になってしまう。

そもそも、未来は見通せないってわかっているんだから、想定外の発生に事前に対処しようと躍起になること自体がナンセンスなのかもしれない。


ええじゃないか運動

情報=in-forma-tion=(頭の)中にー形づくるーもの

そう考えると、あらためて情報は受け手の問題なんだと気づかされる。発話者の意図も不明だし、情報の正誤自体もあいまいだし、となると、唯一確実なのはその情報の受け手がそれを解釈し、自身のアタマのなかでカタチづくり、価値づけした結果、だろう。

ここまでくれば、答えが見えてくる。

VUCAの時代に情報とどう付き合うか。
情報の正誤を見極める? それは無理だわ。そもそも正も誤も常にひっくり返るんだから。
想定外の「ひっくり返り」に対応できるように、あらかじめいたるところに保険を仕込んでおく? いやいや、キリがない。

じゃあどうするの。情報がひっくり返ったら、自分もひっくり返れ、とでもいうのかよ?

――お、いいこと言うね。たぶん、それがいちばん賢い気がする。

これは軽薄とか、ポリシーがないとか、風見鶏だとか、そういうことじゃない。目の前の現状を正しく認識、理解し、受け入れて、それをどう料理するかを考える、ってことだ。


周囲は順風か、逆風か

A街で借りたレンタカーを返そうと走っていたら、たどり着いたのはB街だった。ここで、標識の読み方をどうこうしようとか、もしA街じゃなくてB街に来てしまった場合の予防線をあれこれ張っておこうとか、そういう思考ではなく、やるべきことは、
「B街に来た、ここはB街である」という現時点での情報を認識して、この情報をもとに「いま私は何ができるか」を全力で考えていく、ということだ。場当たり的、対処療法的、無計画だと感じるかもしれない。でも、不確実な状況の中で、限られた資源をどこに突っ込むかと言ったら、無駄な準備にあれこれパワーを割くよりも、(どのみち何が起きるかなんて、誰にもわかりっこないんだから)目の前で展開していることへの対応力の強化に全力を注いだほうがいいと思うんだが、どうだろう。

変化する外部環境を見切ろうとか、なんとかしてねじ伏せようとか、軌道を変えようとか……まあ世の中に絶対はないから……でもねー、そんなことできるのかなぁ。大自然の気候変動に一人で立ち向かうようなものだよ。

それより、気候変動をいち早く察知して、それに対応していく力のほうが大事だと思うんだ。

いわば、環境変化に対して、自分も変化する力。

今日は大事な会議がある。
究極的に精度の高い天気予報を開発するのも、あらゆる天候に備えて様々な雨具を用意するのもいいけどさ、いざ雨が降ってきたら「今日の予定を変更しよう」と思い直して外出を控えられる柔軟さ。これがいちばんじゃないかな。なぜか? 今の世の中は不確実性が高すぎるんだ。自分でコントロールするには、もはや前段のふたつは手に余る。しかし、自分は変えられる。自分の行動はまだ一定程度コントロールできる。
そして、自宅からオンラインで会議に参加できる方法を考えればいいんだ。


教皇のダウンジャケット画像が残したもの

最初に触れたローマ教皇のフェイク画像の話。
つまるところ、あの画像がリアルなのかフェイクなのか、という議論自体が意味のないものだった。
その情報自体に絶対的な意味や価値はなく、あくまで受け手である我々がそれをどう受け止め、解釈し、意味づけするか、というだけのこと。
「じつは教皇は本当にダウンジャケット着ていたらしいぜ」
と自己の認識がスイッチした瞬間に、頭も切り替えて対応できる能力こそが重要であり、あの写真の正誤判断力を磨くことに、もはや娯楽以上の意味はない。

中国ではチャットAIで故人との対話をシミュレートする試みが進んでいるらしいね。
すでにAIによるオレオレ詐欺が広がっているという意味で、この試みに警鐘を鳴らすのはわかる(皮肉にも、AIオレオレ詐欺も中国が先行しているという)。
しかし、この技術は「死」の概念を変える可能性も秘めている。つまり、「死」は未来永劫のお別れではなくなるかもしれない。
おばあちゃんはみんなの心の中に……。
いやいや、目の前に映ってるし、なんなら生前よりも元気にしゃべってますけど? ああ、そんな昔のことよく覚えてるね。生前は忘れてたのに。
そんなことも起こりうる。

きょうは、亡くなったおばあちゃんに会いに行こう!
むかしならお墓へ出かけていたのが、タブレットの前に集合する時代。
しかも、実際に会えてしまうというね。妙に血色のいいおばあちゃんが目の前で元気にしゃべっている。

今までの自分の理解が、認識が、常識が簡単に崩れる時代。
それに抗うか、いちはやく順応するか。
それこそ、モッタイナイお化けを気にするあまりの現状維持バイアスだ。成果を得るために最も適した方法は、必ずしも当初の情報を後生大事に抱えつつ活かしていくこと、とは限らない。

教皇のダウンジャケット画像が残したものとは……。