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【試訳】独島イン・ザ・ハーグ【23】

ドハとウンソンは、実務チームの一員のホン・ジョンウン歴史学教授に、暗号の残りの部分の解読について助けを求めることにした。

ざらついた肌にシワが多く、若干老けて見えるものの、目には輝きのある、童顔のホン教授は、実務チーム内の専門家の中にいる数少ない信用に値する人物だった。

ドハは特に、教授の

「学者は真理のみを話さねばならない人間だ。かつて自分たちが奴隷だったのならそのように言わねばならず、王だったと美化してはならない」

という言葉を聞いて、教授を信頼するようになった。

ホン教授は、独島問題や慰安婦問題をはじめとする韓日間の歴史問題の根本は、植民地支配の不法性に対する両国の認識の違いにあると考えていた。

ホン教授は、

中国など他国については戦争を起こして武力で侵略したかもしれないが、韓国は条約を通して合法的に植民地支配をしたと日本は考えている。

一方で、韓国は当然それが不法と見なしているため、今日の独島問題や慰安婦問題等の歴史問題が解決しないのだ、と述べた。

韓国に対して不法行為をしなかったと考えているのに、どうして歴史問題について心からの懺悔と謝罪をすることができ、

朝鮮半島全土を奪ったことが適法だと考えているのに、どうしてその過程で行われた独島編入のみを不法と言うことができるのか、というわけである。

この背景から、韓国政府は村山談話よりも菅(かん)談話の方を強調すべきだ、とホン教授は述べた。

第二次世界大戦終戦50周年を記念し1995年に発出された村山談話は、

「植民地支配と侵略によって、アジア諸国の皆様に多大の損害を苦痛を与えました。疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、痛切な反省の意を表し、心から謝罪します」

とし、アジア諸国一般に対する反省と謝罪に言及したものだった。

一方で、日韓併合100周年を記念し2010年に発出された菅談話は、

「三・一独立運動などの激しい抵抗にも示されたとおり、政治的・軍事的背景の下、当時の韓国の人々は、その意に反して行われた植民地支配によって、国と文化を奪われ、民族の誇りを深く傷付けられました」

とし、韓国のみを対象として、植民地支配の強制性を認めた点で一歩進んだものだ、とホン教授は言った。

強制性を認めた以上、 特段の違法性阻却事由がない以上、不法性が推定されるため、日本が過去の歴史の不法性を認定するのに一歩近づいたというのだ。

しかし、日本はその後も終始過去の歴史の不法性を認めなかったが、これに関してホン教授は、「強盗行為をしたが不法ではなかった」と言うのに等しい詭弁であると批判した。

日本が1993年の河野談話を通じて、慰安婦募集に強制性があり、日本政府もこれに加担したという事実を認めながらも、最後まで不法だったとは認めていないことに関しても、

ホン教授は、これが「強姦はしたが不法ではない」と言うことと相違ないと指摘した。

ホン教授は、日本が過去の歴史の不法性を認めていないにもかかわらず、一1965年に韓日条約を締結し、歴史問題を終わらせようとしたことが、今日まで歴史問題が両国の足を引っ張る原因だと述べた。

だが、外交官であるドハは、外交や交渉というものは各々の利害関係を持つ相手と行うものであり、あらゆることを自分たちの思い通りに進めることはできない、と考えていた。

外交であろうと政治でろうと、あらゆる交渉の結論は、折衷案になるほかないのだ。

我々が望むことが100であり、相手が望むことも100であるなら、結果として我が方が50を得られれば普通、60なら良くできた交渉で、70も得られれば大成功なのだ。

相手が愚かではない以上、騙したり力ずくで押さえつけたりできない以上、相手側から80、90、100を得るのは不可能なことだ。

それでも、大衆たちが、達成できなかった残りの部分のみ指摘して、やれ失敗外交、失敗政治、失敗交渉だと容易く非難したり、交渉を通じて100を取ってこいと追及する現実が、ドハには納得しがたかった。

100を得たいなら、交渉ではなく裁判をせねばならない。

裁判なら100を得ることもできるが、100を失う可能性もあった。

しかし、大衆たちは、裁判には100を得ることだけを期待して、100を失うかもしれないという可能性は無視したのだった。

それは独島裁判も同じだった。

ドハとウンソン、ソジュンが、ヨノとセオの説話に関して別途諮問を求めに行った際、ホン教授は期待以上の新情報を教えてくれた。

「延烏郎細烏女(ヨノラン・セオニョ)の『烏』(オ)の字が三足烏(サンソクウ)の『烏』(ウ)の字だというのは、学界でも広く知られている見解です。

ですが、首露(スロ)王の王子と王女がヨノとセオだという話は、率直に申し上げて初めて耳にしました。ただ、言われてみると、非常に説得力がある説ですね。

新羅が伽耶の 話を新羅の話へ変化させたことは往々にしてあるので、ヨノとセオが伽耶人だったという可能性も充分にあると思います。

ヨノとセオが日本のどの地域へ行ったかについて、最も可能性の高い場所として言われるのが隠岐島なのですが、

隠岐島に伝わる古文書『伊末自(いまじ)由来記』には、隠岐島に最初にたどり着いた人々は「加羅からやってきた木の葉人(木や葉で作った服を身につけた人)の男女」であるという記録があります。

つまり、ヨノとセオは加羅、すなわち伽耶人であるということになります」

首露王の王子と王女をヨノとセオの夫婦と結びつけた自分の推理がホン教授の支持を得られたことに勇気づけられ、ウンソンはさらに別の質問をした。

「首露王の王子と王女がヨノとセオであれば、首露王の王子と王女も日本で王になったという結論が導き出されます。

ですが、果たして歴史的根拠があるのか気になるところです。

歴史書に、朝鮮半島から渡ってきた男女が王になったという記録はあるのでしょうか?」

するとホン教授は翌日、分厚い歴史書を持ってきて、ドハたちに見せた。

「これは中国で最も権威のある歴史書『三国志』の複写本です。

『三国志』の中には、我が国に関して記録した『東夷伝』と、古代日本に関して記録した『倭人伝』があるのですが、私がお持ちしたのは『倭人伝』のほうです。

これを読んでみると、日本最初の王国である邪馬台国に対して次のような記録が見つかります」

倭国は元々男を王とした。この女が(※1)倭国の地に留まって七、八十年目頃に戦争が起きた。互いに戦ったが、最終的には皆が一人の女を王に立てたが、その名を卑弥呼といった。この女は鬼道に仕え、民を巧みに魅惑し、年を取っても夫を持たず、弟が国の政を補佐した。

(其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭国相亂、共立一女子爲王、名曰卑彌呼、事鬼道、能惑衆、年己長大無夫、有男弟佐治國)

「ずばり、日本最初の王国である邪馬台国の最初の王が卑弥呼女王であり、弟とともに国を治めたという内容です。

『この女が倭国の地に留まって七、八十年頃』という言葉から、卑弥呼女王が他国からやって来た人物であることが分かりますね」

※1・・・この小説では、「住七八十年」の主語を「女子」と解釈していますが、一般的には「男子の王を立てて七、八十年が経過した」「七、八十年男子の王の時代が続いた」と訳出します。

卑弥呼女王が「鬼道に仕え」たという内容は、イ・ヒョジェ先生から聞いた「神女」(シンニョ)についての説明と一致した。

卑弥呼女王が弟とともに国を統治したという部分は、「神女」とともに旅立ったという「先見(ソンギョン)王子」を連想させた。

ホン教授(※2)は、冊子の後半の部分を指差して説明を続けた。

※2 ホン教授・・・ここから暫く、私の持つ版では「キム教授」となるのですが、前後の文脈から「ホン教授」のまま訳していきます。

「この部分には卑弥呼女王の死後の話が出てきます。

『再び男子の王を立てたが、国内が従わず、再び殺し合いが始まり、千余名が 死んだ』と記録されていますね。

ですが、興味深いのはその後です。この箇所もごらんください」

これに再び壱与という名前の卑弥呼の宗女を王に立てると、壱与は十三歳で王になった。これにより国内がついに安定した。

(復立 卑彌呼宗女、壹与年十三爲王、國中遂定)

「宗女は宗家の女子、つまり宗家の娘という意味ですね。卑弥呼女王の後を継いだ王も女王だったのです。

女性にだけ王権が承継された王朝、このこと自体が興味深くはないでしょうか?」

ウンソンが再び質問をした。

「ここで宗家というのは、卑弥呼女王の元々の家系、つまり首露王の家系のことを指していると考えることはできますか?」

「私もそこまで考えてみたことはありませんが、言われてみると可能性があるように思えますね」

暗号文の「太陽の姉弟が眠りし処」が示すものがより明確になってきた。すなわち、卑弥呼女王とその弟の墓のことだ。

今度はドハ がホン教授に質問をした。

【24】につづく

【画像元】https://m.post.naver.com/viewer/postView.naver?volumeNo=30314546&memberNo=21155441

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