分子生物学者が考えるがん治療の問題点とこれから(4)
そもそも現代人は砂糖を摂りすぎており、それが、がんが増えている一因であるという考えもあるので、がんの治療戦略として血糖値を下げるというアプローチは大筋としては間違ってないように思われます。
血糖値が60〜70 mg/dl以下に低下すると低血糖症状が現れ、40〜50 mg/dl以下では気を失い、20〜30 mg/dl以下では生きていられません。断食では血糖値は60 mg/dl程度に落ちますが、全く平気なのは脂肪酸からアセチルCoAを介してケトン体(アセトアセテート、β-ヒドロキシ酪酸、アセトン)が合成され、これがブドウ糖の代わりになるからです。糖質を厳しく制限するケトン食でも同様ですが、最も厳密なケトン食でもアミノ酸からの糖新生のために血糖値は40 mg/dl以下には落ちないようです。
正常細胞はケトン体をアセチルCoAに変換してミトコンドリアでATPを合成することが出来ますが、ミトコンドリアが機能していないがん細胞ではATPの合成が落ちます。ケトン食自体は昔から薬剤抵抗性てんかんの治療法として広く行われ安全性が確立されているため、がん治療としての臨床試験が始められています。大阪大学のグループは、独自のケトン食療法を行った55人の患者を階層化し、血中グルコースが低く・アルブミンが高く・炎症性マーカーCRPが低い群の生存期間が長いことを報告しています。ただし、ケトン食療法を行った群とそうでない群を比較したランダム二重盲検試験ではないので、たまたま長生きした(元気な)グループのケトン食に対する忍容性が高かっただけという可能性は否定できず、エビデンスとしてのレベルは低いです。[大阪大学における癌ケトン食療法5年間の取り組みについて 外科と代謝・栄養53巻5号207, 2019; Promising effect of a new ketogenic diet regimen in patients with advanced cancer. Nutrients 12(5): 1473, 2020; Long-term effects of a ketogenic diet for cancer. Nutrients 15(10): 2334, 2023]
国立保健医療科学院の臨床研究情報ポータルサイトでも、悪性グリオーマ(神戸大学)、肺がん(大阪大学)、大腸がん・乳がん(東邦大学)の臨床試験が現在進行中であることが確認出来ます。いずれも標準治療にケトン食を併用する試験であり、ケトン食単独の抗腫瘍効果を調べるものではありません。他にも民間でがん患者に対するケトン食療法を喧伝している医療機関がありますが、本当に効果があるかどうかは臨床試験によってのみ評価することが出来ます。RCTによってケトン食の安全性・有効性を確かめた上で学会活動などを通して国に薬事承認を求めて行くという姿勢が臨床家としての筋かなと思います。[日本ケトン食療法学会]
2024年現在、ClinicalTrials.govでCancer + Ketogenic dietで検索すると、64件の臨床試験がヒットし22件が終了しています。しかし、少なくとも2021年のメタ解析では39の臨床試験のうちケトン食の抗腫瘍効果が確認された例はありません。[The use of ketogenic diets in cancer patients: a systematic review. Clin. Exp. Med. 21: 501-536, 2021]
臨床試験の結果が曖昧な理由は、研究規模が小さすぎる、患者の多くが厳しいケトン食について行けない、がんには一つの組織を取ってみても多くの種類があり、どのタイプのがんに効果があるかまだ良く分かっていない、がんによってはブドウ糖がなければグルタミン代謝にシフトしたりケトン体を利用できる、がん幹細胞はケトン食に抵抗性の可能性があるといった問題が考えられます。
ケトン食に一定の抗腫瘍効果があるとしても、血糖値が下がることが重要なのか、ケトン体が生成されることが重要なのかは、必ずしも明らかではなく、がん種によって異なる可能性があります。また、乳がん細胞を移植したマウスモデルでは、ケトン食が腫瘍縮小効果を示す一方で肺への転移を促すという危ない報告があり、ケトン食の臨床応用においては適応範囲や安全性の面でまだ解決すべき問題が残っています。[An unexpected role for the ketogenic diet in triggering tumor metastasis by modulating BACH1=mediated transcription. Science Advances 10, eadm9481, 2024]
そもそも、ヒトにとって本来どのような食事が自然なのでしょうか?ヒトは農耕文化が生まれる1万年前までは狩猟生活をしていましたが、肉食のみで生きられる生物ではありません。霊長類が6000万年前にビタミンC(アスコルビン酸)を合成する酵素を失ってから、植物のビタミンCを摂取する必要が生じたからです。また、唾液中のアミラーゼで根菜類のデンプンを分解できたり、肉食動物より長い腸を持ち、腸内細菌叢によって食物繊維を発酵して短鎖脂肪酸を生成できることはヒトの草食動物的特徴です。一方で動物性食品だけで生きているMaasai族やInuitのような人種も存在し、彼らはがんが多い訳でもありません。むしろ、西欧食が持ち込まれてからがんが増えたことが分かっています。全世界でもがんが増えており、高脂肪食・高タンパク食・赤肉・加工肉・動物性脂肪が大腸がん・乳がん・前立腺がんの増加と関連すると言われています。一方、精製された砂糖そのものが発がん性物質であることを示す証拠は限られていますが、高血糖に伴う高インスリン血症がIGF-1の活性化を引き起こし、これが細胞増殖を促進する可能性があります。[Plasma insulin, C-peptide and blood glucose and the risk of gastric cancer: The Japan Public Health Center-based prospective study. Int. J. Cancer 136(6):1402-10, 2015.] 高血糖状態や肥満は炎症性サイトカイン(IL-6、TNF-α)の増加と酸化ストレスを引き起こし、これもがんの発生に関与します。また、高血糖による腸内細菌叢の変化も大腸がんの発生と関連すると考えられています。
以上を踏まえたケトン食療法に適切な食材とは、加工食品と精製穀物をすべて排除し、グラスフェッドまたは放牧された牛・豚・鶏の肉、天然の魚、有機栽培された野菜と果物になります。小麦なら全粒粉、米なら玄米です。根拠については別記事でお話します(In Defence of Food, Pollan M.; Serve to Win: The 14-Day Gluten-Free Plan for Physical and Mental Excllence, Djokovic N.)。ケトン食はカロリーの大部分を蛋白質と脂質から摂取し、炭水化物は1日80 g、40 g、20 g以下に制限します。根菜類の多くは炭水化物なので摂取は限られ、葉物野菜がメインです。
しかし、言うは易く行うは難し、砂糖漬けになった現代人にとって糖質を限りなく制限するケトン食の実践は苦痛以外の何物でもありません。脳細胞のエネルギー源がブドウ糖であるために、脳がブドウ糖を喜ぶように進化したからです。視床下部や側坐核にあるグルコース感受性ニューロンはATP依存性カリウムチャンネルやエネルギーセンサーであるAMPKの濃度に応じてドーパミン系ニューロンを脱分極させ、報酬系を活性化し快感を感じるように作られています。その結果、糖質制限食は私達にとって薬物依存症のような苦痛を伴うというわけです。
厳密な糖質制限ではビタミンやミネラルが不足するため、注意が必要です。大阪大学のチームはてんかんの治療に用いられる明治のケトンフォーミュラ(817-B)を使っています。ケトンフォーミュラは脂質とビタミン類を主成分とし、それだけでケトン食を作れてしまうものですが、国が明治に助成金を出して作らせ、必要な患者に無償で提供する特殊ミルクの一つで市販はされていません(市販に向けての動きはあると聞きました)。その成分表を参考に、ビタミンD・ビタミンB群・マグネシウム・セレン・亜鉛・銅などをサプリ等で補うくらいの慎重さが求められます。
次は伝聞になりますが、国立がん研究センター中央病院で乳がんの治療を受けている方が医師から伝えられた言葉だそうです。最近の話です。
乳腺外科に限らず、日本でがん治療に関わる外科医の多くが全く同じ考えだろうと想像できます。外科医は基本的に手術の件数と成績でしか評価されないでしょうから、食事のことまで考えてくれることを期待してはいけないのかも知れません。ただ、エビデンスがないと言い切ってしまうのはどうでしょう。糖質制限が特定のタイプのがんを抑制するかどうかを判断できるようなRCTがまだ行われていないので効果があるともないとも言えないのはその通りです。そもそも、5年生存率に関する研究をしようと思えば最低5年、均質な背景を持つ患者を一定数集めようと思えば10年くらいの時間がかかるでしょうから、結論が出るのはまだ先になるでしょう。しかし、PubMedで検索するとwarburg effectで5,157件、cancer ketgenic dietで677件(特に直近の5年間で399件と急増)の論文がヒットします。代謝性疾患としてのがんの特性がこれだけの注目と期待を集め、その作用機序に関する分子生物学的解析が進められ、数多くの臨床試験が国内外で走っているのにも関わらず、がん患者は何を食べても良い、とは乱暴すぎませんか?
がんの直接的な原因となる遺伝子変異の種類が多すぎて、現在の標準治療では結果を正確に予測できないことの方が多いです。手術・化学療法・放射線療法・分子標的治療薬・免疫チェックポイント療法を受けれない或いは効果がなかった人にとってどのような選択肢があるのか、科学的データに基づく情報を少しでもお伝えできたらと思っています。