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聴く世界の方がリアリティが増しているかもしれない「島袋道浩:音楽が聞こえてきた」

私たちは、あたかも完成された世界に生きているように感じる。足音は歩幅に合わせて聞こえてくるし、時間は途切れることなく水のように流れ続ける。しかし、その連続性の中で、私たちはしばしば何らかの分岐点を探し求めているのかもしれない。なぜ探し求めているのか、何故かはひとまずおいておこう。

アーティストたちは、世界を分解し、要素を切り分けて再び接合することを試みる。その結果、私たちは普段気づかない矛盾や新しい見え方に直面することとなる。そこに潜む皮肉や意外性が、彼らの作品の中に面白さとして浮かび上がってくるのである。

島袋道浩の作品もまた、このプロセスを通じて独自の世界観を構築しているように感じた。個展「島袋道浩 音楽が聞こえてきた」展が、横浜のBankArt Stationにて開催してきたので、鑑賞してきた。。会期は2024年9月23日まで。


聴くことで見える景色

まず、紹介したいことは、今回の展覧会で初めて公開される作品《キューバのサンバ リミックス》(2023)。

《キューバのサンバ リミックス》(2023)。

一見するとただの空き缶に水滴が落ちる音だが、それを音楽として楽しむことができる。カシン+アート・リンゼイと野村誠がそれぞれ違うアレンジを加えており、同じ「水滴の音」なのに全く異なる音楽に聞こえる。まるで同じ景色を異なる角度から「見る・聴く」ことができる。

《キューバのサンバ リミックス》(2023)。「水滴の音」に合わせてアレンジされる演奏

視覚的な体験としての「見る」と、聴覚的な体験としての「聴く」は、私たちが世界を感じ取るための異なる窓である。「見る」とは、広がっている景色を直接的に感じ取る行為であり、視界に広がるものをそのまま受け取ることである。それに対して、「聴く」ことが視覚に結びつく際には、聴こえてくる音を通じて目の前にないものを想像し、心の中で景色を描く、つまりイメージすることによって「見る」こともある。

「聴く」行為はしばしば想像力を喚起し、視覚に頼らない新たな風景を心の中に描き出す。しかし、聴覚と視覚の情報が一致しないこともある。聴く音と目の前に広がっている映像がズレたり、ラグやギャップが生じたりすることもある。このような場合、私たちは意識的にそのギャップを埋めようとする。あるいは、そのギャップ自体を楽しむこともできるだろう。それはまさに、私たちが日常の中で感じるズレや違和感を再認識するきっかけにもなり得る。

捕まえたことない東京のタコを謳う詩人たち

そのギャップ、違和感を楽しませてくれた作品が《へベンチスタのべネイラ・エ・ソニャドールにタコの作品のリミックスをお願いしてみた(2008)》。「ヘベンチスタのべネイラ・エ・ソニャドール」という表現は、ポルトガル語で「即興詩人のべネイラとソニャドール」という意味である。

《へベンチスタのべネイラ・エ・ソニャドールにタコの作品のリミックスをお願いしてみた(2008)》


島袋が故郷の明石のタコに何かプレゼントをしようと考えた、アイデアから生まれたビデオ作品《そしてタコに東京観光を贈ることにした》(2000)からリミックスされた作品。《そしてタコに東京観光を贈ることにした》では、明石沖で捕獲されたタコとともに東京を観光する様子が記録されている。タコを連れた島袋と出会った町の人々は、彼の話に興味を引かれ、知らない間にこの冒険に引き込まれていく。この過程においても彼が大事にしたい人と人、生の声に対するこだわりが覗き込める。

《へベンチスタのべネイラ・エ・ソニャドールにタコの作品のリミックスをお願いしてみた(2008)》では、サンパウロの街角に立つ即興詩人のデュオに「タコ」の映像を見せ、それにインスパイアされた彼らがパンデイロを叩きながら即興で歌う様子が映されている。この映像には日本語字幕が付いており、同時にイタリアの海でタコを捕獲するシーンなど、タコに関連する別の映像も上映される。今回の展示では、即興詩人たちが歌う映像の隣に並んで、日本でのタコ映像、《そしてタコに東京観光を贈ることにした》(2000)が並んで上映された。

《へベンチスタのべネイラ・エ・ソニャドールにタコの作品のリミックスをお願いしてみた(2008)》

軽快なリズムの即興詩の隣に流れる日本でのシックなタコ映像。不協和音のようで、調和しているようにも感じられる。そんなことを想いながら、即興詩が終わると街中の人々は拍手を。そして、拍手する群衆の一人は「タコとは魚か?」という質問をする。詩人たちは「そうそう、タコは日本にある魚だ」と答える、ナンセンスなことに彼らは捕まえたことがないらしいが。タコとイカの区別をしない国の人々がいるという噂を知っていたが、まさかそれに当たるとは。

フィッシュ・アンド・チップスが映像になるとき

最後に斬新だと感じた作品が《シマブクのフィッシュ・アンド・チップス》(2006)。イギリスの定番料理であるフィッシュ・アンド・チップスをテーマにした作品である。島袋にとって、イギリスの街中で見つけるフィッシュ・アンド・チップスのネオンサインは、美しい詩のように見えたとか。そのフィッシュ・アンド・チップスをつくるためには、そもそもジャガイモが魚に会わなければならないという旅路を映像で再現した。

《シマブクのフィッシュ・アンド・チップス》(2006)まさに水中のジャガイモとフィッシュ


フィッシュ・アンド・チップス、確かに言葉を切り取れば、魚とジャガイモだが、まさか揚げられていない生の魚と生ジャガイモのイメージは想像つかなかった。

ただの料理に見えるかもしれないが、ジャガイモが海を泳いで魚に会いに行く映像は、どこかユーモラスで心温まるものとなっている。この作品もまた、私たちが普段見落としがちな「物語」を見つけ出す力が詰まっている。そもそも、フィッシュ・アンド・チップスを食べたことない人々に、もし言葉だけを聴いて、絵を描かせるなら、確かに「生の魚と生ジャガイモ」が描かれる可能性はあるかもしれない。

《シマブクのフィッシュ・アンド・チップス》(2006)

島袋道浩は、音楽とアートを通じて「見慣れたものの中に潜む新しい可能性」を私たちに示してくれる。難しく考える必要はなく、「こんな見方があったのか」と感じることが、この展覧会の楽しみ方なのかもしれない。矛盾が分解されて見えるその様子がユーモアたっぷりで、鼻をくすぐるような作品ばかりだ。長編映像も、ひたむきに心地よく観賞でき、耳を澄ませたくなるような内容である。時間があるときにゆっくり楽しみたい展覧会だった。


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ジョン | Jong
この先も、最終着地点はラブとピースを目指し頑張ります。