京都には海がないらしい。
「京都には海がない。」という命題。その答えは△(サンカク)である。
ここで言う京都が意味する範囲があまりにも曖昧だから捉え方によって、答えが変わる。しかし、京都「市」と限定して問い直してみれば、答えはとても明確になる。
残念ながら「京都“市”には海がない」これは事実だ。衛星写真がそれを証明してくれた。遥か昔の人は地球平面説のように、山を越えた京都の果てには海があって、その海の先に進めば滝から落ちて死んでしまうと信じ込んでいたのかもしれないけど、そのような神話は21世紀に通用しない。
しかし、なぜか人々は「京都“市”に海がない」という明確で、限定的な表現を使わない。単純に語呂が悪いことが理由かもしれない。言葉を話すとき、リズムにのれるかどうかは重要である。だからか、「市」が省略されたまま「京都には海がない」というフレーズが広がり、それはのちに言説となる。今や「京都には海がない」と言っても半数の人々は(特に京都の人に限って)「それはそうだ。」と答えるのではないだろうかと予想する。
この物語からわかることは、実に世の中は、人の便利によって都合よくつかわれている言葉がたくさんあるということなのではないだろうか。そもそも言葉、言語というものが人間同士の意思疎通のために作り出された(それは自然発生的な「創る」ではなく人為的な「作る」)一種のルール、規範的なものだとしたら、人間の都合によってどう使われても良い訳だ。決して、人の都合よく変わることを批判するわけではない。言葉は本質的に都合よい方に変化するのだ。我々という生き物は..なんて自分都合なのか!
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コーヒーの仕事を求め、京都という街に移り住み3か月が経た。私は港町で育ったので、海がない街に住んでいることがとても残念で仕方がない。このちょっとした寂しさを埋め合わせるために、家の近くにあるHarbor Caféに行って、休日を過ごしたりするのだが、だからといって「天地開闢、突然、大地に海が広がったのだ!」みたいなことは起きない。我々は神々の世界に生きているわけではなく、しっかり現実に向き合って日々を過ごしているからだ。
しかし、海がないという難点を除けば京都はかなり住みやすい街である。色んな良さがあるけど、一つ上げるとしたら電車に乗らなくとも暮らせるところだ。個人的に電車=システムの象徴、みたいな固定観念がある。満員電車の人混みが苦手というより、あれだけの人々が時間に囚われて、同じ時間、同じ場所で一斉に降りられるシステムが苦手だ。それに比べ、京都は自転車があればどこにでもだいたいはいける。自分の行く道は、自分で選ぶ感覚。この自律神経の感覚が生きている暮らしが好きなのだ。
幸いまだ入社して間もない頃ではあるが、会社の人々も優しく、仕事内容も大変だけど情熱を注げるようなもので、満足している。海がないという難点さえなければ、京都で余生を過ごしても良いのだが..
日本に移り住んで7年目、札幌3年、別府4年、そして次は京都だ。おそらく京都の次に住む街は日本ではないだろう..という予感がする中、とりあえず今の京都ライフを充実したものにしていきたい。