「 百年の孤独 」と「 『百年の孤独』を代わりに読む 」を自分で読む【 本の紹介 】
「 百年の孤独 」G・ガルシア=マルケス
20年間、彼(「 百年の孤独 」)は、じっと本棚の片隅で、ボクが読むのを待ってくれていたのでした。
「 長い歳月が流れて銃殺隊の前に立つはめになったとき、恐らくアウレリャノ・ブエンディア大佐は、父親のお供をして初めて氷を見た、あの遠い日の午後を思い出したにちがいない。 」
という出だしで始まりを告げるのは、マコンドという小さな村を開拓した一族の繁栄と衰退の年代記です。
ところで、どうして20年もの間、「彼」を読むことが出来なかったのか。いや、時々取り出してホコリをはらっては、冒頭の文だけを繰り返し読んだのでは、なかったでしょうか。
「 ノーベル文学賞 」、「 ラテン文学 」、「 マジック・リアリズム 」、そのような硬い言葉たちが鎖のように巻きつき、本の扉を強固に閉ざしてしまわなかったでしょうか。
分からないのです。しかし、本を手にするまでの20年は孤独でした。彼(「 百年の孤独 」)もボクも。そして、いよいよ両手を広げて、マコンドへ迎え入れてくれたものの、やはり孤独だったのです。
当たり前ですね。そもそも読書とは、究極の孤独の営みなのですから。
ところが、そんなボクの感慨を知ってか、彼は軽妙に言ってのけたのでした。
「 文学は人をからかうためにつくられた最良のおもちゃである 」
と。
「『百年の孤独』を代わりに読む 」友田とん
二十年間読めずにいた「 百年の孤独 」を読み進めるきっかけとなったのが、この不真面目に真面目で、真面目に不真面目な本です。
作者の友田とんさんは、ガルシア=マルケスが亡くなった2014年の春に、ふと「 百年の孤独 」を代わりに読もうと思いたちました。もちろん冗談として。
それが、「 百年の孤独 」をまだ読めていないボクの背中を押してくれたのでした。オリジナルと、この不思議で楽しい本を一章ずつ交互に読むことには、他には代えられない愉しさがありました。
そして、一方で難解だと評されているオリジナルの解説、理解の補足にも役に立ちました。
いや、正直に言いましょう。途中からは、「『百年の孤独』を代わりに読む 」を読みたいがために、オリジナルの「 百年の孤独 」を読んでいた節があることを。これでは本末転倒ですね。
<「 百年の孤独 」はドリフのコントである。>
「 代わりに読む 」を読むことで、そのオリジナルの笑いがドリフのコントの笑いに昇華(?!)され、ボクは不覚にも大笑いしました。さらに、クライマックスの戦闘シーンは、友田さんの若き日のミスドでの店員との戦いと融合し、高揚感とともに、ボク自身のノスタルジーと混ざり合い、言葉では言い表せないカタルシスがやって来たのでした。
ありがとう、友田とんさん、代わりに読んでくれて。ありがとう、ガルシア=マルケス、強靭な面白さとしなやかさを持った作品を書いてくれて。
でも、結局は、全部自分で読んだのです。
「 小説を人の代わりに読むことはできないというのは希望である。 」(友田とん)
(完)